邦題は「大きな木」。村上春樹が翻訳したバージョンもあるそうです。
The Giving Tree by Shel SilverStein
日本では1976年に初版が発行されて以来、人気のある絵本ということなので、読んだことがある方も多いのでは。
わたしが読んだのは今回が初めてです。が……
子供に読み聞かせながら、だんだんと苦笑いになってくるのが自分でもわかりました。
小さな男の子と大きな木の心温まる交流のお話……かと思いきや、男の子が成長するにしたがって、損なわれていきます。何が損なわれるのかというと、「木」そのものが。
この物語は、自然と人間との関係とも、無償の愛とも、母性愛とも、いろいろな読み方ができると思います。
ジャータカ物語 兎の話 と近い内容なのではないかとも思いましたが、異なるのは、
And the tree was happy ... but not really.
というところです。
これは根っこ以外全てを少年に与えた後の、木の心理描写です。
「木は幸せだった」ことに、But not really と、ちょっと「?(疑問符)」がつくのです。
ちなみに村上春樹の日本語訳は「木は幸せに…なんてなれませんよね」だそうです。
ジャータカの兎の話には、この「?」がつきません。
何が違うのでしょうね。
これは、慈悲の冥想で「わたしの親しい生命が幸せでありますように」というときに、パートナーや自分の子供を具体的に思い浮かべるのは注意が必要だ、というのと通じるものがあるのかなと思いました。*1
注意というのは、たとえば子供のことを思い浮かべることで、「あの子はもうちょっと勉強したほうがいいのに」などの欲や怒りに繋がってしまうからです。
この「木」の場合も、自分が男の子とまた一緒に楽しく過ごしたい、という欲がありました。
それはとても自然で、悪いものにはみえないのに、やっぱりどこかでちょっと、「?」がくっついて来てしまうのです。
ジャータカの兎は、自分が施すことで何かを得たい気持ちはなかったでしょう。
その違いこそ、「... but not really」がつくか否かの分かれ目なのだと思います。
*1:
パーリ語仏教用語集『CATU-APPAMANNA-CITTA:慈悲(四無量心)』
家族に冥想する時は、自分の奥さんや旦那さんや子供たちを真っ先に思い浮かべるのではなく、まず両親、お爺さん、お婆さん、兄弟、親戚などを選びます。これは、異性の友人や身内のことを思うと、mettâ ではなく別の情が出てしまいがちだからです。......