「悲しみや寂しさについて」
(スマナサーラ長老談)
寂しさというのは依存ですね。
依存から出てくる問題です。
ややこしいです。
生きるとは依存です。
何かに依存しなくちゃ命が成り立たない。
だったら必ず寂しい。
依存したものも、それも無常だからなくなります。
そうすると、ああ……、ということになります。
生きることとパッケージになっています。
悲しみも同じです。
仏教の世界では、この依存度をどんどん弱くするんです。
そうすると、寂しさ悲しさが消えていきます。
たとえば、親しい人が亡くなることは悲しい。
依存を弱めてみる。
これは当たり前のことだ、誰だって亡くなる、誰だって歳を取る、これが世間のありさまである、というふうにドンドン理解していくと、依存度が柔らかくなっていく。
それでいくらか心が安らいで生きていられます。
アビダルマでは悲しみや寂しさも怒りに入ります。
嫌(=怒り)、ということだからね、結局は。
(東京 法話と実践会 2017.01.09 説法めもより)
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