ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

生きることは本当に苦なのか?(4・最終回)

生きることは本当に苦なのか?(3) - ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

から続きます)

 

そろそろうなぎ狂いの時期でしょう。うなぎ狂い、桜狂い、いくらでもありますからね。狂っていますよ、毎年毎年、順番で狂うのが決まっているんですよ。狂って、遊んで、ふざけて、その狂いが終わったら次の狂いに行くんです。それもやっぱり、狂わなくちゃ楽しくないでしょう。わたしは桜の時期日本にいますから、あの時は部屋から出ませんね。ここら辺にも桜が咲きますけど。狂わないで桜を見るときの、穏やかで無常で、一時的に目に錯覚を起こしちゃって楽しみを感じさせると、わたしはそういうふうに観察するんですね。わたしにも桜は汚いとは見えませんよ。でも皆様が感動するように、「なんて美しいんですか!」ということではありません。観察する。そこでわたしは「なんで人々が狂ってしまうのか」とそこまで観察する。

 

そういうふうに桜を見て観察する人と、皆様は合わないでしょう。桜の下でビニールシートを張って、腰掛けを持ってきて、お酒を用意して、タッパーで料理を持ってきて、ギャアギャアと「あなたはこちらに座ってください、あなたはあちらに…」とそれで苦しんで悩む。用意は苦しい、場所取りは苦しい、みんなを管理することも苦しい。食べるときは性格が悪い、酒を飲むからみんな勝手なことをして管理するのが苦しい、笑いは最低、歌っても最低、歌の技術を使って芸術作品として歌ってないでしょう、あの場合は。くたくた疲れて、狂いが必要で、「楽しかったですね、来年もやりましょう」と。苦しかったことを楽しかったというんです。管理した人にどうでしたかと聞いて見ると、「くたくたに疲れた。みんな言うことを聞いてくれないし、注文した料理は時間通りにこないし、あれやこれや」と言う。

 

そうやって我々は楽しみを認識するために狂うことが必要です。狂いとは、イエスをノーで取る、ノーをイエスで取る世界なんです。逆さまに認識することも狂いなんです。酒というのは良いものだと思っているでしょう。酒を飲むと脳細胞が壊れる、神経も壊れて、正しく活動しない。酒を飲む人々が分かっていないのは、神経細胞は大事に守らなくてはいけないこと。ちょっと壊れたら復活はできません。体が怪我をしたのと同じではないんです。どこかで神経が壊れたら繋げることはできません。

 

そこで頭がいかれる。脳に仕事ができなくなった状態が、楽しいというんですね。それは一番危険な状態です。それを作って楽しいと言う。だから「狂い」と言うんです。酒を飲まないでいると「疲れた」と言うけれど、それが現実でしょう。仕事帰りに疲れちゃっているならば、それが現実です。それなら寝たほうがいいんです。しかし、仕事を終えた途端、飲み屋さんに行ってギャーギャーと騒ぐ。

 

「狂い」と言うのは逆さまに取ること。なんで我々は逆さまに取るのかと言うと、ありのままに見るとものすごく嫌なものなんです、存在は。おっかないんです。愛着は生まれません。お釈迦様はそれをやってくださいと。執着を捨ててください。即座に究極の変わらない、安穏な涅槃解脱です。

 

そう言うことで、生きることは、いくら違うと思っても「苦」なんです。

たまに楽しみがあっても、これは苦が作ってくれたものだから、ありがたくないんです。

わたしは人に怪我をさせたとします。人を殴ったり倒したりして、骨折など大けがをさせたとします。相手が怪我をした瞬間に、わたしがすごく親切に手当てをする。横にさせて、冷却スプレーをかけて、救急車を呼ぶ。それで相手はわたしに感謝するべき? 相手を倒して怪我をさせたのはわたしでしょう。皆様方はそう言う風な感謝をしていない? 人生で。

 

命を賛嘆する。賛美歌を歌う。神にも感謝するでしょう。

一日中苦労して、競争して仕事して、やっと家に戻ったら、食事をする。そこで家族みんなで、「天にまします神様に感謝します。今日の食事を与えてくれて……」狂ってない?

わたしが言うなら「わたしは酷い人生にされている。苦しんで戦って、侮辱されて仕事をしてきた。それでやっと食材を買えた。それを家内がわたしに悪口を言いながら料理を作ったんだよ。料理は苦しみがあるから美味しいんだ。疲れているから。この酷い人生を作った者がいるならば、わたしはそいつをただでは置かない」とお祈りします。(笑)

問題は、わたしは幸せですが、神を讃嘆する人々は幸せではないんです。

 

世の中には「狂い」と言うことがあるんです。我々は意図的に狂っています。

精神的に病気になった人々は、皆様にはあまり関係ないかもしれませんが、わたしのところにはやってきます。意図的に病気になった人は、絶対に治してもらわないと思っています。だったら勝手に苦しめばいいでしょう。でも冥想をして病気を治したいと言う。それでは冥想をこうやってください、と教えると、「これで本当に治りますか」とまた聞く。「やってみなさい」と答えても、実際にやらないんです。厳しく「やりなさい」と言うと、5分くらい冥想して、「また妄想が湧いてきちゃったんだけどどうすればいいですか」と。つまりやりたくないんでしょう。

 

この人々は、十年二十年と、変な妄想を作って頭がいかれちゃって、わたしが冥想を教えたら、1分もかからないうちに完治してほしい、と言う。あり得ないでしょう。そこで完治したらどうしようかと、また心配。だから病気が治るのは嫌なんです。わたしたちは正常じゃない。わたしたちも意図的に狂いを作っています。意図的に狂いを作って、幻覚を作って、執着を作る。執着作ったら悪行為をするんです。悪行為をしたら死後は確実に不幸に落ちます。それは人間の循環なんです。それが嫌なら、観察能力をつけて、ありのままに見ることです。仕事で疲れたら疲れたんです。それだけです。ご飯を食べると味が足りないと思ったら「味が薄い」とそれだけです。それにグチャグチャと毒をかける必要がないんです。誰かが忘れて醤油がかかっていなかったら、そのまま食べればいいんです。わたしは豆腐に醤油をかけません。かけるためには、そのまま豆腐を食べるとまずいと言う苦しみがなければ醤油をかけないでしょう。わたしにその苦しみはないんです。豆腐の味はこれである、で終わり。

 

そう言うことで、狂いをやめてありのままに。

自然法則を変えてやろうと言うことはしません。安穏で穏やかに。余計なことを期待しません。なんで期待するんですか。苦しみがなかったら期待が生まれる? 期待があると言うことは、苦しみがあると言うことです。希望があるとは、すごい苦しみがあると言うことです。期待や希望があると言うことは、自然法則を変えてやろうとすることです。神にもどうすることもできない。神が、人が犯した罪をどうすることもできませんからね。どんな宗教でも、犯した罪をチャラにすることはできません。他宗教ではなぜ最後の審判があるんですか。どうして自分が作った世界に自分が審判するんですか。自分の行為でしょう、全て。神に逆らうことはできないでしょう、その世界では。狂っています。神にさえ自然法則を置かせません。

 

希望や期待があるとは、この人はものすごい罪を犯しています。地球の自転公転を止めてやろうと思っているんです。できるわけないんだから、放っておけば。暑くなったらクーラーつけましょう。冬になったらもう一枚余計に着ましょう。悩む必要も苦しむ必要も期待する必要もない。そうやってすごく安穏で安楽に達することができます。

どうもありがとうございます。

(終わり)

f:id:thierrybuddhist:20180819153554j:plain

(写真:焼きトウモロコシの屋台)

 

スマナサーラ長老 法話と実践会(東京)2018年7月8日

https://www.facebook.com/jtheravada/videos/1813433162051878/

を聞いて書きました。

法話ツイッター中継:

スマナサーラ長老の仏教法話(@jtba_talk)/2018年07月08日 - Twilog