ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

死んだら終わりか? がん末期です

質問者

「がんになって、抗がん剤などの治療を受けているんですけど、あまりにも辛くて死んでもいいと思うようになった。

今まで死んだら終わりと思っていた。

でもスマナサーラ長老の本を読むと、輪廻のくさびがあって悟らないと終わらないのではと疑問が出てきた。

でも輪廻はよくわからない。死んだことが無いから。輪廻があるのかないのか。信じるべきなのかそうじゃないのか」

 

 (この説法の音源:β関西活動報告 : '12 9/16 関西定例瞑想会@マーヤーデーヴィー精舎

 

回答(スマナサーラ長老)

 

死ぬのは不安だ、怖いのだと考えるのは病気の方々です。

死んだらそれで終わりと考えるのも証拠がないし。

すべては死でおわらない。物事は止まらない。それが輪廻です。

 

死んで次の生まれでは病気から解放されると考えることもできる。

がんになって抗がん剤放射線で焼かれた体を捨てることができる。また、死んでどうなるんだと不安になることもできる。

 

そういう場合どうするか?

こころに治療するのです。お釈迦様の治療です。

 

抗がん剤で体がしんどい。でも心に影響は行っていないのです。体が苦しい。でも心は関係ない。

 

精神的に体を捨てるんです。人間の肉体と言う着ぐるみに入っている、と考える。壊れかけていく着ぐるみを着ているんだ、と。

 

こころは冷静で、明るく楽しく健康にいます。

だから体のことは、気にしない。体は勝手にやってください、と。体を着ぐるみ扱いするんです。

それで厳しい治療も耐えられます。

 

「治してほしい、何とかしてほしい」と心が思って治療すると、心が体をいじっている。

これは体を中からいじめていることなんです。薬とか効かないんです。薬で外から細胞を攻撃する、そして心が中から攻撃する。それでは早く死んじゃいます。

 

「体が病気でしょう」と「私が病気」と思わないように。

こころは病気じゃない、体の調子が悪いだけ。そういう風に二つにちゃんと分けてください。

これが病気の時に我々がとる態度です。

 

輪廻があると思うなら、輪廻の苦しみから脱出する唯一の方法はヴィパッサナー瞑想なんです。

輪廻から逃れるのは、執着を捨てることです。がんと言うのは自然な現象です。でもがんにかかると大変なことになったとびっくりしちゃう。宣告されたら言葉も出ない。それは執着のせいです。それで亡くなると、今度はまた執着のせいで心が次の生を作ってしまう。

 

(病気になって)今は体がしんどいんだけど、体は勝手に壊れていくもの。

それに自分が執着しているんだから、壊れているからだが自分に執着を作ってくる過程が見えてくる。体が本物の姿を見せている。がんになってそれが分かってよかったと。この体には執着しないぞと、決意する。それでヴィパッサナー瞑想で解脱に向かう。

 

でも、瞑想したけど大したことなかったとしたら? 

 

それでも大丈夫。

ヴィパッサナー瞑想でしっかりこころを調教した経験が残る。そのこころはだらしないところに行きません(生まれません)。

だから瞑想がうまくいかなくても大丈夫です。いいところに生まれます。いいところに生まれてから、「こんないい環境でいい体に生まれたのは何かあるはずだ」と瞑想意欲が生まれてくる。

 

もうちょっと、死の恐れがある人にしゃべります。

みんなあることだから。死ぬっていうことは。できるだけ早く考えた方がいい。子供のころからでも。

 

自分も他人も死ぬんだよ、と。そうすると世の中が正しく見えてくる。

人間と言うのは、物事を考えるようになった時点で、人は死ぬんだ・私も死ぬんだと観察しなくてはいけない。

 

(長老の)母親も、「人は死ぬんだよ」と教えていた。「いつまで甘えているんだ。私が死んだらどうするんだい?」と言われる。子供の自分は、母親が死ぬといわれてものすごいショック。そこでガクンと考える。死を意識していると欲がなくなる。皆と仲良くする。それで心が明るくなる。

 

他のことを考えることがなくなってから、死のことを考えるのは、遅いんですよ。

がんになって病気になってから考えるのでは遅い。若いうちから考えないと。そうすると、執着・欲・怒りが少なくなっていく人生を送ります。

 

生きているものは皆死ぬのだ、我も死ぬのだ、と考えることは一つの瞑想です。

ヴィパッサナー瞑想を支える一つの瞑想。それを念じるんです。死の随観(ずいかん)といいます。

 

暗いと思うでしょ? でも逆に、「明るい未来を目指して頑張れ」というのは苦しみの呪文なんですよ。

明るい未来を目指す、ということは現在が暗いんでしょ? 

 

 皆さんは将来はどうするんでしょうと、心配するんですね。

欲がちょっとありすぎ。心配するなかれ。今をがんばってください。

 

私たちは例え解脱に失敗して輪廻転生することになっても、瞑想すること、仏教の説法を聞くだけでも、世間の次元からは考えられない次元に触れている。

仏教の話を聞くと、自分のこころの次元が変わっていくでしょ。欲が薄くなって優しくなって、まともな人間になっているでしょ。次元が高い人は次元の低い話に興味がわかないでしょ? 

 

だから行けないんです、下には。次元の低いところに生まれないんです。死後は心配してはいけないんです。

家族仲間が、汚い思考でいたら、それは心配した方がいい。

 

では一度でも仏教に触れることができなかった人はどうするのか? 欲怒りで、すごい執着を作って生きた人。

 

執着することは「違法」なんです。

たとえばマイホームに執着することは違法なんです。地球から借りただけだから。地球はものすごく優しいレンタル屋さんなんです。自分がお金をためてマイホームに住んでいたとしても、ちゃんと地球に返さなければいけない。借りたものを「私のものだ」というのは違法でしょ。

 

レンタカー借りたことある? いちどでもレンタカーを自分の車だといったことある? 冗談でしか言わないでしょ。

 

体も同じ。「私の体」というのはない。レンタルなんです。

体もちゃんと料金取ってるでしょ。体も自分の物じゃないのだから返さないと。私のものだと執着して返さなかったら違法行為なんです。それにはふさわしい罰が待っています。だから死後はどの程度の執着かで行くところが決まるんですよ。

 

そこでブッダはできるだけ執着を控えて薄く薄く薄く……しないさいと。

ものすごく執着心が濃い人。どす黒い人。死に直面している。どうしたらいいのか? 「生きとし生けるものが幸せでありますように」、慈悲の瞑想です。もし自分の親が寝たきりで死にそうで、執着心がどす黒い場合。お粥をひとさじ上げるときに「生きとし…」を唱えさせる。そうしないと上げませんよと。自分にものすごく親しい人だったらこういう方法も可能だとおもいます。

 

自分と親しくて心配な人には慈悲の瞑想を教えてあげてください。

病気の末期でヴィパッサナー瞑想ができない場合は、やはり慈悲の瞑想です。それで心配ありません。

 

死後はあるのかないのか、生まれ変わるのかそうでないのか、どうでもいいんじゃないのか。今、明るく生きていれば。それで死んでもし死後があっても安心でしょう。 

 

輪廻。死んだら終わりというのも証拠がない。死んだら生まれ変わるんだというのも証拠がない。

(考えるだけならば)どちらも信仰です。死んだら終わりでもなんでもどうでもいい。あなたが罪を犯さず人に迷惑を掛けず、人格向上をしなさい。それで生きているとき幸せです。今、得しています。

 

もし死後があったら、そこでも幸せになるかもしれない、得をするかもしれない。

一方で、強盗しても人を殺しても構わない、と考える人もいる。だって死後はない。これは危険な信仰です。道徳を否定している。生きている間批判されるわ、嫌われるわ、みじめな人生になる。死後があったなら、そこでも不幸になるかもしれない。

 

「今」を明るく頑張ってみてください。

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