読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

仏教を知る前の方が心は安らいでいた。仏教を学んで間違った方向へ行っているのでは?

説法めも 死・老い・病気

1.質問御嶽山のニュース。人間はいつどうなるか分からない。仏教を知る前は、『私はいつ死んでも悔いはない』と周りに伝えていた。でも、今はそういう風に思っていない。自分が生きていきたい、という強い衝動があると気付いた。以前の方が心は安らいでいた。最近自分自身にダメ出しをして落ち込む。これは仏教を学んで間違った方向へ行っているのではないのか?

(2014年10月4日(土)スマナサーラ長老「法話と実践会」よりメモしました。今回の質問は9つでした。いくつかに分けて載せます。)

Ustream.tv: ユーザー DhammaStream: JTBA, JTBA. 仏教

回答(スマナサーラ長老)いくつか原因が考えられます。最初は無知で生きてきた、傲慢な満足感で生きてきた可能性があります。仏教を学んでみると、そうじゃないんだと。心の中で生きていきたいと言う気持ちがじりじりとあるんだなあと。今はいくらか人生が見えているし傲慢ではない。だから成長しているんです。これが一つの見方です。

あともう一つ。人間が若くて元気な時は「いつ死んでもいい」と思うんです。年取って本当に病気が近づいてくると、その態度が変わるんです。若い時は「自分は死ぬわけない」と思っている。年を取ると本当に病気が起こってきて怖くなるんですね。誰にでもあることです。

今ご自分には宿題があります。生きていきたいという、衝動が、気持ちがある。そう簡単には消えません。じゃあ何のために生きていきたいんでしょうか? 何が面白くて何が捨てられなくて、生きていきたいと思うのか。そういうふうに自己観察することなんですね。

そう言うものを発見してほしいんです。

次のステップがあります。自分がこの世の中の色々なものに執着している。自分の体、自分の子供、使っている道具に執着している。面白いんですよ、色々な品物があってね、旅に出たいとか、美味しいもの食べたいとか、そう執着してね、生きていきたくなるんですね。例えてみるとね、携帯電話を長く使いたいんだから死にたくないんだということになるんです。そんなのどうでもいいことなんですけど。

我々は自分の肉体に執着している、周りの品物に執着している、だから死にたくない。死ぬっていうことはそういうのを捨てることになるんですね。仏教の結論は、どうせ捨てるんだから、最初から捨てる準備をしなさい、と。どうしても取り上げられますからね、どうしても捨てたくないと言っても苦しいだけなんですね。

生ごみを袋に入れて口を結んでおけば、あとは捨てるだけなんですね。家の中にある時は何となく気持ちが悪くて、次の日その生ごみを捨てると気分爽快なんですね。修行して、捨てる準備をして、全部生ごみをね、準備をしておいておく。ゴミの日になったらポイポイと出す。気分爽快なんです。そういう風に気分爽快で人生を終えることができます。そこまで修行して人格を向上してみてください。

広告を非表示にする