ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

蛇を尾っぽで掴むのはキケン【中部経典 蛇喩経】

お釈迦様の経典の中で、「蛇のたとえ」というものがあります。*1

蛇使いが笛を吹くと、蛇が音楽に合わせるかのように体を左右に揺らします。人々はそれを見て、蛇が笛の音を聞いて踊っているんだというように錯覚します。実際は、蛇使いが座っている膝を左右に揺らしているので、蛇はそれに反応して自分も左右に動いているだけなのですが。

 

お釈迦様の時代にも蛇使いがいました。

もし、蛇使いが間違って蛇を掴んだらどうなるか。その場で蛇の毒で即死します。

間違って蛇を掴むというのは、尾っぽを掴むと言うことです。だから蛇使いは、棒で蛇の頭を押さえてそれから首を掴むんです。それで蛇使いは安全です。

 

そのたとえで、蛇を掴むときの正しいやり方があります、と。

仏法も間違った取り方をするな、ということです。そうすると大変な不幸になります。

 

仏教をなぜ学ぶのかと言うと、人間のあらゆる悩み苦しみをなくすためです。

一般的に人の悩みは、お金が無いとか、仕事がきついとか、奥さんが厳しいとか、子供に手がかかるとか、それを悩みと言いますが、そんなのは悩みではない。子供がわがままなのは決まっている。もし子供が言うことをしっかり聞くのは逆におかしいです。もし手のかからない子供がいたら、精神的に問題がある可能性があります。

 

奥さんがヒステリーとか。女性はヒステリーに決まっています。

男はわがままではない。社会で、会社で上司の言うことを聞く。競争が無いと、ヤバイと言う気持ちが無いと、男は言うことを聞かないんです。そういう種なんです。

 

以上のような、自然のことで悩むのは、間違っています。それは人間の悩み苦しみではありません。

 

人間の悩みは、精神的なものです。

嫉妬、怒り、憎しみ、落ち込み、傲慢、余計な夢とか抱えたり。節度を越えた希望を作ったり、自分を他人と比較したり。余計に苦しんじゃうんですね。いつでも他人と合わせてみてしまいます。人はコピー品ではありません。人間だけです、コピーを作るのは。

遺伝子もコピーはない。どれもオリジナルのものです。

 

そういうことだから、自分と他人を比較するのは余計なことでしょう。

放っておけばいいのに、嫉妬する。自分の希望にそぐわないと怒る。余計なことです。

自分の希望に合わせてくれることは、まずないでしょう、この世の中で。

 

コミュニケーションと言うのはギブ&テイクの方式ですから、自分が得るものがあれば相手にも与える、それだけの関係です。

自分の希望通りに何でもやってほしいというのはあり得ないのです。

それが分からなくて、怒ったりする。

そういうわけで人間と言うのは、精神的に悩みます。放っておけば済む話なのに、です。

 

自分がミツバチの巣を蹴って、あえて手を入れて、「大変だ、これじゃあ死んでしまう」と騒いでいます。ミツバチが自分から人間を追いかけてくることはありません。人間が自分でミツバチの巣を蹴っているんです。

 

人間は、いかに苦しむのかと言うことについては、プロです。

いかに穏やかに暮らすのかと言うことは、誰も知らない。

そこでお釈迦様が究極の幸福に達するまで教えています。

大事な教えだから、誤って受け取るな、と。ブッダの教えを。

 

誤って理解して実行するのは、自分の責任です。

微妙な真理を教えているので、真剣に理解しなくてはいけません。

自分の主観で、好みで、洗脳に基づいて理解することが、大失敗のもとです。

人間と言うのはほとんど洗脳されています。無知な人間が、自分の子供に無知を叩きこんで、ずっと時代が続いている。キツイ洗脳です。

現代なら、勉強していい会社に入って金もうけしろ、とそれだけ。ほかに何も教えない。

ときどき、NHKでも社会問題を扱っていますけど、私は一人でビックリしています。屁理屈と無知の具合が度を越しています。

 

結局は、何も知らないんですね。いい仕事をして結婚しなさいと言うのは、それが人生の目的ですか? そのために生まれたんですか?

仕事は、収入を得るだけの話でしょ。

結婚も子供も、それでずっと幸せにいられるんですか? 子供は成長したら出ていきますよ。

私たちは洗脳されています。しかしそれ以外は考えることが何もできません。

 

それで日常生活に失敗すると、宗教に興味を持ちます。だから宗教の世界では、ご利益やら祈祷やら、商売繁盛の話やらばっかり。

洗脳されている人間の要求にいかに応じるのかと言う話ばかり。

いかに金儲けをするのかと言う俗世間の考えと、同じ考えなんです。

 

仏教は、幸せになる道を教えています。金持ちになる道ではない。

 

これは道ですからね。やり方を教えています。どう生きるのか? と言うことを教えています。

私のことを祈祷してくれ、というのは態度がデカいんです。

私の生き方は正しい、という態度です。

 

何か学びたい、知りたいという人々も数は少ないんだけど、いる。

しかし、自分で理解しようとして失敗しています。

自分の主観で、好みで、偏った癖で判断してはいけません。

例えば、小さい時から神に感謝すればいいと思っている人は、仏教に来て、「どのように感謝すればよろしいんですか?」と聞きます。それは、自分たちの主観をそのまま正当化してほしいという気持ちがあります。

 

自分勝手に解釈してはいけません。

 

 学び方なんですね。

子供たちが学校で科学などを学ぶときは、主観が入らないでしょ。

ゴキブリを解剖する場合は、気持ち悪いという気持ちがだんだん薄くなって、ただ淡々と部位ごとに分ける作業をするようになる。

 

歴史とか社会は、主観だらけで学問ではありません。

政治学も、学問じゃないですね。経済学も、学問にしようと必死ですが、結局、人の気持ちになります。

 

いま(2013年6月23日)、テレビで一生懸命アベノミクスを広げようと頑張っていますけど、ぐちゃぐちゃとわけのわからないことをしゃべっていますね。

アベノミクスと言うのは何なんでしょうね、結局は。

雰囲気作るだけです。それで一時的に株が上がって、円安になって、万々歳だと。実際、「気持ち」で株が上がったのですが、(株価情勢を語るとき)「気持ち」という言葉を使わないんです。

 

そういうわけで経済学も、正真正銘の学問ではありません。理由がなく株が上がったり下がったりする。ただの「気持ち」なんですね。

理由がなく円の値段が上がったり下がったりする。

客観的なら、外国為替はずっと一定のはずです。お金の価値が上がったり下がったりするのは、おかしいでしょ。

昔は10万円と言うのは大金だと思っていたけど、今は100万円なら大金と感じだりします。そういうふうに変わっています。

 

あるおかしな人々がただ単に、買ったり売ったりしているだけ。そのおかげで世界の相場が動かされています。そこになんの客観性もありません。

 

学ぶというのは、主観を捨てたところで知識が入ります。経済学をやっても頭は良くなりません。科学を学ぶと、脳の運動ができるので、人格的なものを学ぶ場合でも早く学べる可能性があります。

 

昔、小泉首相のとき、誰か経済学の大学教授がでました。大学の授業では人気がありましたが、実際政治に出てきたら最悪。ある日、国会で、その人が出ていたら、同じ党のベテラン議員が「おまえ、大学に帰りなさいよ」と。党員仲間なんですけど。「国会は大学の授業ではありません」と。ベテラン議員は、現実的にどう経済政策をやっていったらいいかと経験で知っていましたが、大経済学者のあの人はまるっきり現場ではダメ。

 

言いたいことは、学ぶときは、客観的に学ぶこと。自分の気持ちを入れません。

 

仏教を学んでいると、この問題がきつくなる。

仏教は「あなたは何者か」と教えている世界なんですね。これかなり危険なんですね。主観が入りやすい。洗脳で判断しやすい。自分と言う巨大な錯覚があるんだから。

 

あなたは何者かと教える場合は、順番でゆっくり教えなくちゃアカンでしょ。

 

これはレベル高い問題なんです。お釈迦様は早い段階で諭しています。蛇のたとえで。長い経典です。

 

頭の悪い私たちには、安全対策があります。お釈迦様の言うことには、ゴチャゴチャ文句言いません、と。ブッダの言葉は、最終決定版にします。

 

「私」の考えは、おいて置きます。「私」から見るとどうも納得いかないんだけど、お釈迦様の決定版があるんだから、こちらを取るしかないでしょうと。

 

その場合は自分で判断することはしません。安全のために。

 

遺伝子で人間のすべてが分かるというのは、間違っています。

ジュノムをすべて読み切りましたけど、それで人間のすべてが分かりましたか? 読み方によっても理解が違います。

ジュノムを読み切って何が分かったというと、「生命について何も分からない」ということが分かりました。

 

遺伝子も自分たちで変化する。遺伝子改良の医療と言うのは、いまだに夢物語です。遺伝子の動きは誰にもコントロールできないんです。本物の科学者は、遺伝子を研究した結果、ほとんど何も分からないと言うことが分かったんです。

 

科学の意見は変わります。変わると言うことは、まだ真理に達していないと言うことです。

地球が丸い、ということはもう変わりません。丸いことが真理です。それ以上、新たな研究はない、終わりです。

 

真理に達していない場合は、結果がどんどん変わります。

科学が真理に達したらどうなるか。科学の態度がちょっと変わります。「こちらの話を聞け」と言う態度になる。

科学を学ぶ子供たちには、疑問を持つことは大いに賛成と言う。疑問を、好奇心を持って自分で調べないと言います。ただし、子供が手を上げて「先生、私は地球は丸いとは思いません」というと、先生は「あほなこと言うな」と態度を変えます。「おれの話を聞け」ということです。

 

つまり、仏教は真理に達しているんです。これ以上口をはさむ余地はないんです。

自分の判断でどうしようか迷っている場合は、お釈迦様の言うとおりにします。それでうまく成長していきます。

 

すごく苦しいんですよ。仏教は科学なのに、自由に考えさせてあげたいのに、それはできない。人々には、考える能力の問題があります。

 

具体的な例ですが、ある人が「自分を大事にしなさい」と言う言葉を聞いて、自分の思うとおりにしようと決めて、離婚して、家族がハチャメチャになって不幸のどん底になってしまった。これってお釈迦様がおっしゃったことですかね?

 

これは正真正銘の、「蛇を尾っぽで掴んだこと」です。

自分で判断してしまったんです。もともと、エゴイストの人間が、自分のことを大事にしなさいと言われて納得した。

初めからエゴイストで問題がありました。それをなくすべきところ、逆にエゴの幻覚をさらに強化してしまった。

自分を大事にすると言うのは、エゴを直すことなんです。エゴで生きるたびに、自分が攻撃を受ける。攻撃を受けたくない、穏やかに生きたい、だったらエゴを捨てなさい、と言うことです。

 

コーサラ国王は、いい加減な仏教徒でした。ある日、犯罪者に対して次々に処刑命令を出していました。「今日は何人殺しちゃったかな」と、国王はなんとなく気持ち悪くなって、お釈迦様の所へ行きました。それでお釈迦様に偉そうなことを言うんですね。お釈迦様も一応、コーサラ国民でしたから。*2

 

「人間と言うのは、自分を大事にすべきです。しかし大事にする方法が分からないのだ」と。

 

「自分を守りたければ、正直に言いなさい」と国王は犯罪者たちに言いたかったんですね。犯罪者はみんな、嘘をついて自分を弁護していました。素直に罪を認めて懺悔しなかった。それで国王は、減刑できずに死刑を命ずることになってしまっていました。

 

国王の結論は、「人間は、自分を愛するがゆえに、自分自身を仇敵にしていまっている。どのようにすれば自分を大事にすることになるのか」

 

では嘘をついたら自分を大事にすることになる? 結局自分が窮地に立たされます。嘘をつかない、ケンカをしない、バカにしない、殺生しない生き方が、自分を大事にする生き方です。それで自分を守っています。

 

正しい道があるのに、それを自分で勝手に解釈して間違えます。

 

自分を大事にするなら、夫婦げんかが消えます。子供がわがままをやめて親を尊敬します。いかに自分を大事にするのかと言うことは、お釈迦様が最終決定版を教えているのに、勝手に自分で判断して、自分と言う仇敵を調子にのらせる。その結果、スピーディに自己破壊します。

 

ですから、どんな教えにしても、慈悲の瞑想にしても、自分の好き勝手に解釈してはいけません。

 

ブッダに聞いて、どうして慈悲を実践するべきか、どのようにやるべきかを学ぶ。自分がやりにくくても、私の気持ちは違うと思っても、そこはこらえてブッダの言うとおりにやってみる。

 

それで、目の前で幸福になります。仏教の結果は時間が必要なものではありません。

目の当たりに結果が見える教えなんです。

 

調べるのは自由ですよ、怖くないんだと。もう真理に達していますから。地球が丸いと分かっていることと同じです。

 

科学者は、真理に達していることを話すのは怖くありません。しかし新しい研究結果を発表する研究者は、ちょっと不安です。緊張します。次にどういうデータが出るか分からないから。

出来上がった真理に対しては、別に、不安がったり緊張する必要はありません。

そういうわけで仏教は、目の当たりに結果が出ます。死後ではありません。なのに、ほとんどの方々は、いくらでも聞いているのに目の当たりに幸福にならないんですね。蛇を尾っぽで取っているのです。

 

判断するときは、主観や先入観でみるのではなく、客観的に科学を学ぶような感じで、自分の気持ちはおいて置いて、実行すれば、目の当たりに幸福になります。

 

 

関西月例冥想会 2013.06.23 1/1 - YouTube

動画上で1:11:00までメモしました。

*1:

 

中部(マッジマニカーヤ) 根本五十経篇I (パーリ仏典 第1期1)

中部(マッジマニカーヤ) 根本五十経篇I (パーリ仏典 第1期1)

 

 中部経典 根本五十経篇 第22 蛇喩経(Alagaddupama-sutta)347ページ

*2:

十六大国 - Wikipedia 3.4コーサラ王国

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