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書評「わたしの名は紅(あか)」オルハン・パムク著、和久井路子訳

小説「雪」に続き、二冊目のオルハン・パムク氏の小説を読みました。

 

感想をざっくり言うと…

  • ミステリ小説として素晴らしい。お正月休みの読書におすすめ
  • 歴史知識として貴重。1590年ころ(日本では豊臣秀吉がトップリーダーの時代)のトルコの様子が「内側から」分かる
  • 現代のイスラム原理主義者によるテロリズムについて、理解の糸口が見える

 

「ミステリ小説としての素晴らしさ」

この小説では、語り手がどんどん変わります。まず、最初に登場する語り手は、なんと「屍(しかばね)」。「優美(ゆうび)」というニックネームの、殺された細密画師が、”死体のまま”語り始めます。

 

仏教教義としては、死んだら「心」は変化して、次の瞬間には別の心になっています。場合によっては別の物体(人間、動物など)と共にいます。いわゆる輪廻転生です。そこで、「屍」が語るというのはあり得ないので大いに突っ込みたくなるかもしれませんが、小説の世界へ進みましょう。

 

6ページほど、屍が語ると、次は12年ぶりにイスタンブルへ戻ってきた男「カラ」が語り始めます。それも6ページほど。次は、犬が話しはじめ、語り終わると、出てきたのは「人殺し」です。最初の「優美」を「屍」にした犯人です。

 

この犯人は、優美と同じ細密画師で、別の章ではある細密画師として、自分が犯人であることをひた隠しにしたまま、いろいろとしゃべるのです。犯人候補は何人もいます。しかし、もちろん誰も自分が犯人であるとは、実名で語る章では、一切言わないのです。犯人は用心深く狡猾で、内面をなかなか明かしません。だから、真犯人が誰か、最後になるまで全く分からないんです。ミステリ小説として十分楽しめます。

 

「歴史知識として貴重」

この小説の舞台である1590年、日本では豊臣秀吉の世でした。同じころトルコでは、オスマン朝のスルタン・ムラト三世の時代でした。そのころのトルコ社会の様子を知るすべは、私たちにとって多くありません。しかしこの小説では、それを読者が感じることができます。

 

二人の子持ちで未亡人の美女・シェキュレと、12年ぶりに戻ってきた遠縁の親戚・カラとの恋愛が、小間物屋のおばさん・エステルが仲介する手紙のやり取りによって進んでいくとは、「へぇ!」と驚きました。

エステルは、イスタンブルの細い裏通りを自分の庭のように、商い道具を風呂敷で担いでいきます。私は以前、旅行でモロッコの都市マラケシュに行ったことがあるのですが、その路地を思い出しました。

難解なパズルのような路地は、部外者に二度と同じところを通れないだろうという気持ちにさせます。作中ではそういう裏道を、エステルの案内を得ておそるおそる進んでいくことができます。

イスラム原理主義テロリズム

また別の興味深い面では、現在のイスラム教を標榜するテロリストの種が、すでにこの時代に芽吹いていることを確認しました。

それは、ヨーロッパの優位性に打ちひしがれて卑屈になるイスラム原理主義者たちの心理です。頭では分かっていることは、本来、人と比べて自分が劣っていると落ち込むことはないのです。それについて、パムク氏はこの本の最初のほうで「日本の読者へ」というメッセージで言っています。

 

「日本の読者へ

西の影響によっても傑作を創りだした日本の近代絵画は西の人間性と東の人間性が互いに幸せに調和できることをも示しました。この調和の中でしかるべき知識と能力と自信があったら、オスマン・トルコ―ペルシアの絵画の伝統もまたこのことに成功し、存続して、物語の中の細密画師たちもお互いを殺すこともなかったでしょう。」

 

これはもちろん、絵画についてのみ言及しているのではなく、人々の心のありようについて語られていると思います。

「調和して発展する」

このことを、どんなときも私たちはやらなければならないのです。世の中は変化します。グローバリゼーションが進行していく社会で、ローカルに固執することは苦しみを自ら作り出すことです。

それはイスラム原理主義者に限った話ではなく、日本原理主義者(ということばはないですが、いま作りました)にとっても同じことです。

 

私はこの本を読んで、日本がいま、日本原理主義者(仮)として世界で事件を起こす人々を出さなくて済んでいる理由は、地理的な原因が大きいのではないかと思いました。トルコは地図でみるとヨーロッパといっても過言ではないほどの位置にいます。トルコとヨーロッパを分断しているものは国境ではないことは確かです。

 

「西」はものすごく強大です。優れた芸術、優れた社会的システム、資本主義的王者です。ただでさえ、隣の芝生は青いのに、その青さを近くで見つづけることは辛いことでしょう。さらに、イスラム社会特有の決定的な「理由」である「神」は、内側から人々の足を引っ張ります。日本にはこの「神」が、なりを潜めていることが、大迷惑な日本原理主義(仮)をいまは生み出さないでいる、第二の理由です。

 

それにしても、トルコ人は幸せです。

こうして、トルコへの関心と理解を得ていく術を知っている偉大な作家がいます。わたしたちもまた幸せです。訳者の和久井路子氏が、トルコに在住しながらパムク氏の邦訳を日本の出版社に「売り込んで」くれたおかげで、日本語で世界と繋がるアクセスポイントが一つ、増えました。

 

最後に参考として、「訳者あとがき」を一部転載します。

 

訳者あとがき

 「2001年9月11日事件の数日前の『ニューヨーク・タイムズ』紙の書評欄は、現代トルコ文学の第一人者オルハン・パムクの『わたしの名は紅』(1998)の英訳版に大きな紙面を割いていた。これは著者の英訳された四冊目の本で、同紙の書評欄はそれまでも常に彼の作品に関心と賛辞を呈していた。この本は十六世紀末のイスタンブルの細密画師の世界を扱っていたが、その中に記されたイスラム原理主義者の動静、文明間の衝突と共存イスラムの役割などが、9・11テロ事件後に、特別の意義を持ってくるとは知るすべもなかった。

 舞台は1591年の冬、オスマン・トルコ帝国の都イスタンブルでの雪の九日間の出来事である。帝国は十六世紀前半に政治的にも、経済的にも、文化的にも最高の円熟期に達したあとで、色々な面でそろそろ問題が出てき始めた時期である。

政治的な腐敗、長く続く泥沼化した戦争、物価高、インフレに悩む市民、疫病の流行、大火、退廃的な風潮、乱れた世相と、これら全ての悪の根源は預言者の言葉にそむいたためであり、葡萄酒の売買を許したためであり、宗教に音楽を取り入れたためであり、異教徒に寛大であったためであったといって、この機会を利用して市民の間に入り込み,広がりつつあるイスラム原理主義者の動きがある。

敗北を知らなかったトルコ軍はこの少し前、レパントの海戦(1571)でヴェネツィア共和国スペイン王国キリスト教連合艦隊に初めて敗北を喫して、西洋の力に対する畏れを身をもって感じ始めた時期でもある。この時期はまたトルコの細密画の技術が、その庇護者十二代スルタン・ムラト三世の下で本家のペルシアの芸術を凌駕する域に達した時代でもある。

時のスルタン、ムラト三世は翌年がイスラム暦の一千年目に当たるところから、その在位と帝国の偉容を誇示するための祝賀本の作成を秘かに命じる。元高官で細密画がわかるエニシテが監督するが、彼はかつてヴェネツィアで見た遠近法や陰影,肖像画などの手法を取り込むことをもくろむ。西洋画の技法で細密画を描くこと、特に肖像画はアラーの神への冒 行為と考えられる時代である。物語はやがて殺人事件に発展していく。事件はイスタンブルで起こるが、細密画にまつわる歴史的解説は、アレキサンダー、ダリウス、ジンギスカンの蒙古、フラグの西アジア、チムールの中央アジアコーカサス、古代ペルシア、ササン朝ペルシア、インドにまで及ぶ広大な展開を示す。

この本は、その中で西の文明に対比するものとしてイスラムの概念がでてくるが、イスラム原理主義者の西の影響をよせつけようとしない暴力と独断を、強く糾弾する書である。

進歩的なモスレムの知識人たちと共に、著者はこういう野蛮と独断がイスラムを内から破壊し、自己批判や変化をおそれることがモスレム社会を後進させるという。変化をおそれず、西の文明を、よいものは選び受け入れることによってこの危機を乗り越えられるという。」 

わたしの名は「紅」

わたしの名は「紅」