人生に何か出来事が起こると、祈りやらをしますね。
どこにでもある習慣ですけれど。
たとえば結婚式の儀式を真剣に、いろいろと行います。やっぱり不安なんですね。
結婚がどんなものか、みんな分かりません。
人生は一貫して不安なものなんですよ。そこに気づいて欲しいのです。
しかし、人生は、オートパイロットモード(自動制御運転)で生きていきたくなるのです。どうしてでしょうか。
あらゆる機械が発明されています。原始時代から考えてみると、ものすごい数の機械が生まれています。
昔から、人々は畑を耕していて、そこで作業が苦しいや、となると、牛を使いました。それからオートパイロット状態に入ってきます。今では、機械で、モミが袋に入った状態までオートパイロットになっているんです。
日本では、付加価値を入れるために手を加えます。稲刈りをして、束にして、しっかり結わえる。機会が全部やってくれます。人間がやることが減っています。
他の機械を見ても、いかにオートにするのかという方向に向いています。
私にしても、ガラス扉は自分の手で開けないものだと思っています。ガラス扉の前に立って、開くのを待ってしまうのです。自動ドアだと思って。しばらく立って待っていて、「あら、開かない」と気づくのです。おかしくなっていますよ、頭が(笑)
外国に行ってタクシーに乗ったら、ドアは自分で開けて自分で閉めなさい、と(自分に)言い聞かせてあげないと(笑)外国のタクシーは自動ドアではありませんから。
人生の至る所でオートになっている、ということは、人間の心理状況なんですね。思考パターンの結果です。
それで、迷信もカルトも、祈りの習慣も終わらないんです。一向に良くならないんです。
オートモードを始めたのが、祈りなんです。
科学が何もなかった時代で、祈りだけはあったんです。
祈って、豊作、健康、子宝、敵がなくなること、いろいろ祈ります。祈ったら、オートパイロットモードで、知らないところで色々やってくれると願います。
何回も何回も繰り返し言うと、人間と言うのは信じて本当のことになってしまうのです。
それで、あそこで、あの人に祈ってもらったらうまくいきました、と評判が立つのです。口伝えの過程で、説得力が増していきます。その結果、「あのおばあさんは神様と話している」などなどのうわさが出てきます。
未だに私たちは、オートにやってほしいと思っています。よく考えると、相当怠け者でしょ。怠けながら何かやろうとすると、相当きついんですよ。「やりたくない」と思ってやると、失敗も起こります。
怠けがあって、なんでもオートモードでやってくれるだろうという望み、それが責任感をなくします。
もし、誰か弱い人がいて叩けそうだったら、「お前のせいだ」と袋叩きにします。責任を追及されて、責任逃れができなくなったら自殺してしまいます。
怠け思考というのは、社会や政治の世界を見ても、責任逃ればかりで、最悪の結果を出しているんですよ。
人生全体的に、オートモードで何でもやってほしいと言うことが、大変な問題を起こしていますね。
結婚したら、旦那が自分に何でもやってくれると、姑さんが玄関で土下座してお姫様気分にさせてくれると思っているんです。自分でやろうというのが無いんです。だから結婚してもダメになってしまいます。
仏教が嫌われるのは、本当のことを言うからなんです。
石器時代から何も進化していないだろうと。
「我々はどれほど発展しているだろうか」じゃないんです。お釈迦様の言うところは、「進化してない」ということです。
発展じゃなくて、自分のだらしない状況を、機械で保たれて、隠れているだけなんです。
自分の醜さ、精神的にだらしないところを守りましょう、と言うのが発展ではないでしょう。
人間と言うのは、何でもオートで自動でやってほしい、と。
お正月三が日が過ぎると、銀行の人は神社に行ってお賽銭を回収しに行くでしょう。お賽銭を入れるのは、オートモードの人びとでしょ。何も得られませんけど、そんな人生では。
いい年でありますように、とゴロ合わせで賽銭箱にお金を入れるだけではダメ、というのが仏教の立場なんです。事実を見る。変な感情は捨ててほしいんです。好きか嫌いかが事実ではありません。
世の中を見ると、オートではやってくれないでしょう。そんなのはあり得ないでしょう。
頭の中から、すべて行為の結果だと理解してもらわない限りは、人間はそのまんまです。
だからお釈迦様は、「自分には自分しかないよ」と、もっと進むと、「自分には自分さえないよ」と言う言葉があります。
言葉が厳しいかもしれませんけど、これは嘘ですかね?
(私たちは「神秘」がほしい【新年法話2】へつづく)
β関西活動報告 : '12 1/09 関西定例瞑想会@マーヤーデーヴィー精舎よりメモしました。
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