β関西活動報告 : 11/19関西定例瞑想会_アラナ精舎<23> (2番目の音声)よりメモしました。
昔、わたし(スマナサーラ長老)が住んでいたある村は、ものすごく寒かったんですよ。電車も一時間に一本しかないし。無人駅で。街灯が一つあるだけ。
ある日、真冬の夜中に東京へ出かけなくちゃいけなくなった。
駅まで歩いて40分かかりました。駅に行くと、やっぱりすぐには電車がない。
駅で電車を待つとき、寒くて居ても立っても居られない。
畑のど真ん中で、風と雪がびゅうびゅうと吹いている。強烈な寒さの中、待たなくてはいけない。すごく苦しむでしょう。
ちょこっと体を隠すところがあったんですけど。廃校になった建物で、ガラスが全部割られていた。部屋としての役割はもう果たしていませんでした。でもひとまずそこへ入った。
「よし、わかった。じゃあこの寒さってどういうものなのか? 人がどのように寒さを感じるのかと、見てみようではないか」と思いました。
じーっと立ったまんまで、体に風が吹いていく様子をずっと観察していきました。
寒いとおおざっぱにいうんじゃなくて、体のどこが寒いのかと観てみようと。
体を部品的に見ていくんですね。
「足のところは少々寒い。我慢できるか?」「あ、我慢できる」
「じゃあ、胸の方?」「寒くない」
「背中?」「寒くない」
だったら、どこが寒いんでしょうか?
部品で見れば、別に、我慢できないほど寒くないんですけど。
初めは、どうやってここに(こんな寒い中)いればいいのかと思っていたのに。
そういう気持ちが瞬間あったんです。
次の瞬間で思考を入れ替えたんです。
(部品ごとに見ていくと寒くないとわかって)「どうやって寒いと言えるのか?」と自分に聞くんですね。
さらに部品を見ていくと、ああ、両手。これは寒い。
じゃあ、両手を何とかすればいいとわかる。それを何とかして。
次に、顔に風があたる。それで顔を観察するんですね。
そうすると、顔は別に大丈夫なんですよ。人は、顔で寒いと感じません。
じゃあ、どこが寒いのか?
そういうふうに、電車が来るまでじーっと待っていたんです。
そこで電車が来て、何か早く来たような気分になりました。
実際に早く来たのではなくて、時刻通りについたんですけど、気分的に早く感じました。逆だったら、「まだか、まだか。今日は時計の進みが遅いじゃないか」と待つことになりますよ。
見方次第です、物事はね。
われわれはかなり錯覚で生きていますよ。期待、希望、期待、希望で。
15分くらい待っていても、一時間くらい待っているように感じちゃうんですね。
だからわれわれは、思考をきれいに整理整頓しておくと、全然問題がない。
わたしがすごく寒く感じる場合には原因が分かります。精神的に落ち込んでいるんだと。気分が明るくない、とすぐに分かるんです。
寒いと思ったら、暖かくする。それでもなおらないなら、気分を変える。明るい方向へ。
どちらにしても、負けることはしません。
気分があまりよくないし、外に出る用事もないならば、暖房付けたりストーブを入れたりして、ムチャ暖かくしているんです。
出かけなくちゃいけないんだったらね、なんでこんな寒い時でかけなくちゃいけないんだ、じゃなくてね、気分を入れ替える。「では出かけようではないか」と。
生きる方法としては、それですよ、答えは。
それっていうのは、一切は無常であって、因果法則によって先が変わるんだから、こちらで因縁(原因)を変えれば結果が変わる。
そういうふうに考えて、人間は「負けずに」生きていられます。