質問「悲惨なニュースに接するとき、どのような態度で聞けばいいのですか?」
回答(スマナサーラ長老)
その場合の態度は二つあります。
せっかく仏教を学ぶんだから、ブッダの教えの立場から物事を見る、というのが第一の態度です。
お釈迦様がおっしゃっているのは、「わがまま、自分本位では、何一つうまくいかないんだよ」ということです。わがままは成り立ちません。自我は幻覚であって、本物ではありません。この幻覚を破らなくちゃいけない。
われわれは、この自我・エゴと言う幻覚を、どこまで消せるのかということに自分の成功も幸福も成り立つんです。
ということは、完全に自我の幻覚を亡くした人が、完全な幸福に達しているんです。
そこでこの世の中で、不幸な出来事などあらゆる問題が起きているところで、調べてみてください。そこに、強烈なエゴ、自我が入っているんです。
そこで自我が強い人は、自己主張で、内回りになるんです。心の中が。
自分の心の中で、内回りにグルグルグルグル、回転するんです。
心と言うのは本来、汚いんです。恐ろしいんです。怒りがあって、嫉妬があって、憎しみがあって、傲慢があって、わがままがあって。限りのない欲があって、限りない希望が溜まっていて、どうしようもないものなんですよ、心と言うのは。決して立派なものではありません。
日本仏教でいうような、仏性(ぶっしょう)のものではありません。物騒(ぶっそう)なものなんです(聴衆爆笑)
とても危険なものなんです。それが、内向き周りで回ると……。破壊するんです。
この破壊力はかなりのものです。
関係ない人々まで破壊します。
歴史を見ても同じこと。第一次世界戦争、第二次世界戦争、……全部、自我の結果なんです。
心が内回りに回ったことの結果なんです。どれほどの人が死んだかと……。
この国、日本はほとんど平等で、頑張る人には誰でも立場がある。幸福に生きてみようかなぁと思ったら、日本の社会は誰にでも邪魔していません。
明るい心で頑張れば、誰にでもチャンスがある国です。アメリカよりはチャンスがあります。
なのに、人を殺したりする(事件がある)んだからね。
ではこの人類は、どんな生き方で生きるべきかと言うと、すべての生命がことごとく、幸福でありますように、というモットーでわれわれ一人ひとり生きるべきじゃないか、と言うブッダの教えがあります。
西洋人、東洋人、誰にしても、生き方は一つしかないんだよと。
それは宗教でも、経済でもありません。生命が、すべての生命が幸福に生きることである、と。
その気持ちが心の中に入った途端、あの自我が、あのエゴが、消えていくんです。
あの幻覚が、どんどん溶けていきます。
みんな幻覚を持っています。「あの人(事件の容疑者など)だけがいかれているんだ」と言うのは、ちょっと調子に乗りすぎ。「わたしは立派だ」というね。冗談でしょう。みんないかれています。
だから、一つの事件を分析するとき、同格にいかれている人びとの話を聞いても、役に立ちません。だからいろいろな人の分析を聞いても、何の役にも立ちません。結局はいかれていますから、誰でも。
そういうことで、われわれの心の狂っている状態をなくす唯一の薬は、慈しみです。それを間違っているとは、誰にも言えないんです。
生命に親切にすることが間違いだと、誰にも言えません。
すべての生命に対して慈しみの気持ちを持つと、世の中にある社会的な問題は解決します。
ですから、第一の態度はそれなんですよ。
みんな互いに心配しあうなら、仲良くしあうなら、この世の中で悲しい出来事(事件)は生まれないでしょう。
これから人間がこの真理に気づかない限りは、この問題はずーっと続くでしょう。人殺しはずっと続くでしょう。戦争は消えないでしょう。
だからブッダが人類に、唯一の答えを出してくれたんじゃないかと。
世の中のニュースを見るとき、ブッダの教えの角度から見ると、より仏教は理解できるようになります。
第二番目の態度と言うのは、わたしたちの社会で、われわれの仲間たち、たとえば自分の国でみな仲良くいるために、このケース(事件)をどのように学ぶべきか、ということです。
みなさんは他の国を管理できませんから、自分の国で考えます。
この二つの態度で、ニュースを見たほうがいいんじゃないでしょうか。
(関西定例瞑想会 2007.04.22 http://www.voiceblog.jp/najiorepo/340057.html よりメモしました)