質問「慈悲の瞑想をしていて、世間は無常であり苦であるから本当の幸せはあり得ないと思ってしまいます。結局ウペッカー(捨)ではないのでしょうか?」
回答(スマナサーラ長老)
本当の幸せはあり得ないと思うと、理屈っぽくなっちゃいますね。
自分が本当の幸福とは何なのかと理解する必要があります。
仏教は解脱が究極の幸福です。それをありえないと思うと、ちょっとまずいとは思います。
仏弟子たちの慈悲の瞑想は、人々のことを憐れむんですね。「みんな正しい判断をしたがっているのに、かわいそうに、できないなあ」とかね。
たとえばイスラム国の人々にしても、幸せになりたいと思っていますよ。やっていることは、破壊することをやっているんですね。
だから仏弟子としての慈悲の瞑想というのは、大げさなことはダメなんですよ。本当の幸せはないんじゃないかと言っちゃうとね、仏道じゃないんですね。ウペッカーというのは、解脱に達した方ならウペッカーができますけどね。
一般の人のウペッカーは無関心になることになってしまうんですね。これはちょっとマズイですね。
本当の幸せは煩悩がないことで、だからといって、「わたしは煩悩がなくなるように」と願っても簡単に煩悩はなくならないし。
そこで仏弟子はカルナー(悲)です。「みんな大変だなぁ、うまくいかないなぁ、でもうまくいってほしいな」と言う気持ちです。
そういう風に世の中を見ることです。
イスラム国のことは、最近、わたしは記事を読みません。偏見的な記事ばかりで。
イスラム人を救いたいというあの人々が分かってないのは、世界経済の不公平なんですね。イスラムの国々は金があるんだけど食いものはないんです。それをわかってないんですね。どう解決すればいいのかと。
サウジアラビアの国王が亡くなりました。女性に自由を与えた国王と言うが、何の自由ですか? 下着売り場に女性店員がいてもよろしいと、きめただけです。それで車の運転手も、乗客が女性なら女性でよいと。もし男性客だったら? 男性は罰せられないんだから女性運転手が罰せられます。
サウジアラビアみたいな国でも、ない人には物がないんです。
朝ずっと一般人が宮殿に並んでいる。何か恵んでほしくて。それで宮殿の人がその人たちにものを与える。これって残酷的な不公平でしょ。
シリアであろうが、その周辺国であろうが、そんなに貧困ではない。
その恨みは誰に向くのかと言う問題がありましてね。
「ではイスラム“国家”になったら大丈夫か」というのは勘違いですよ。国家になってもお互い殺し合いをやっているだけ。それでも、暴力を使ったとしても、財産を均等に分けるということにはならないんです。
問題は各国の人びとに、それぞれの収入で本当に生活できないのか? ということです。
国際的な問題もあるし、アメリカが絡んできて金をもっていってしまうという問題もあるし、いろいろあるんだけど、それを明確に理解しようとしないんです。
ただテロ行為すれば結果が出ると思っている。ただアメリカに対して何かをやってしまえば世界は平和だとか、みんなイスラム教になれば世界は平和だとか、どれもすごい勘違いです。
仏教から、仏弟子の慈悲の瞑想から見ると、「かわいそうだなぁ」と。「しあわせになりたいのになれないなぁ」と。「自分の利益しか考えてないんだから、これはなかなか解決できない」と見えてくるんですよ。
イスラム国も、権力者主義でしょう。だから別に、彼らがうまくいったとしても、中枢の人々が財産をいじっているだけで。
世の中の悲しみの状態を観察して、みんななんとかうまくいってほしいという気持ちを育てることが修行になるんですね。
それで人格向上するんであって、輪廻転生がうまくいくわけじゃないんです。輪廻転生の問題を解決するんじゃないんです。
輪廻の問題を一発で解決できない。各自で修行しなくてはいけないんです。
慈悲の瞑想は、自分の人格向上になります。幅広く物事を見る。小さな自分がより心広い生命になる。間接的に皆が幸せになるかもしれません。
自分が心広いんだったら、自分の周りの人々も気持ちよくなるでしょう。それを、つなげて、つなげて、いった方がいいと思います。
(東京・法話と冥想会 2015.01.25
http://www.ustream.tv/recorded/57959831 動画上で01:17:00~終了よりメモしました)
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