質問「罪を犯したら、必ず自分のこところに返ってくるんだと聞くと、本当に怖くなってくるんですが、罪を犯した人間は逃げることができないんでしょうか?」
回答(スマナサーラ長老)
わたしたちにとっては、法則から逃げることも、法則をだますことも不可能です。まずそれを理解してほしい。
何やっても、法則の中でやらなくちゃいけないんですね。
法則は、「物事のありさま」のことです。
科学者がいろいろなものを作ったりしますね。世にないものを。でも、すべて法則に合わせてやっているんです。法則を破って何かすることはできません。
いろいろ化学反応を起こして新しいものを作りますよ。でも何が作れるかということは、法則で決まっています。
美味しい料理を作ろうと思ったら、法則の中で料理しなくちゃあかんでしょ。決まりがあります。
たとえば料理に、はちみつ入れて塩の味を出しましょう、というのは無理ですね。
そういうことで、なんでもわれわれには乗り越えられないもののありさま、というものがあるんです。
それでボールを空に投げて落ちないようにしましょう、というのも無理です。投げたら、結果が落ちてきます。だから、罪を犯してもよいことをしても、結果は来るんです。逃げることはできません。
救いがないのか、と大げさに考えなくてもいいです。ボールを投げたら落ちてきて、それで終わりますからね。行為は結果を出して、そんなに大げさに考える必要ないと思います。
だから仏教はそんなに罪というのは、脅したりしないで、すごく客観的に、「行為に結果がありますから」と。悪い結果が嫌だったら、悪い行為はやめてくださいと。それだけの世界の話にしているんです。
イスラム教になると、人間の行いを天使2人が記録しているんですね。神は全知全能のはずだから、記録は要らんでしょう。
結局は、人間が考えたことだから、法則の中でしか考えられないんです。
そういうことで、大げさなことではない。ボールを投げたら落ちる。
ガラス窓に向かって、自分が石を投げる。投げた瞬間で行為は完了しているんですね。投げてから、「あ、あ、間違えた! ガラス割れないで!」と思っても、割れてしまいます。窓ガラスを弁償することになる。
それはごく普通な因果法則です。
米をといで水と一緒に炊飯器に入れてスイッチを押せば、ご飯になります。これはどうしようもないんです。
行為をしたならば、その結果が来る。逃げる方法はない。
それは一個一個の行為を見るときなんですね。
でも人間はもっとたくさんの行為をして生きているんだから、助かる方法もいろいろあります。
たとえばダンマパダでもね、繰り返すなよ、と。繰り返しちゃうと、溜まりますよと。だから、一個の結果というのは大したことじゃないんです。
たまたま機嫌が悪くなって、一枚の窓ガラスを割ったら、それは話し合って何とかできますけど、片っ端から各家の窓ガラスを割って走っちゃうと、これは犯罪者なんですね。どうにもならん。逮捕されて、警察に連れていかれて。
一回の罪を犯して、繰り返すことがないならば、軽い処理で何とかなります。
だから悪いことをしたら、一回にしてください。それですぐ反省して、二度とやらない、というふうにしたほうがかなり楽になると思います。
楽になるには、逃げることではないんです。
もう一つは反対の行為をすること。
行為をしてその結果が出ますね。次から次へと反対の行為をすると、その結果がすごく柔らかくなっちゃって、もしかすると気にならない程度になっちゃうかもしれません。
たとえば、生命を殺したとする。一回だけ。
これはあかんやと思って、生命を助けることをずーっとやる。
人を殺したとしましょう。それからたくさんの人を助けることをする。命を大事にすることにする。そうなってくると、結果が出るんだけどそんなに大した、大きな結果にはならないんです。
たとえば、自分が人を殺したことの悪結果がでるときも、自分が長い間生命を助けたことのその結果もそちらに割り込んでくるんですね。そうするとそんなに、大したことはないんですね。
青酸カリ飲んだら死にますね、すぐ。しかし、体がすごく健康で、ごちそうをたくさん食べているときに青酸カリがちょびっと入ったとする。微妙な量。そうすると、少し気分が悪くなるかもしれませんし、あるいは全然体が気にしないかもしれません。大量に良い食べ物がおなかの中にあるんだから、青酸カリがちょびっと入っていても、「あったっけ?」という程度で体から出ていく場合もあります。しかし微量の青酸カリでも体に悪いことは悪いんです。
お経では、塩の喩えでたとえています。
塩そのものを食べちゃうと、塩辛くて大変なんですね。でも、塩の一かけらが水に溶ければ、別に、飲めます。塩味もしないんです。
昔は塩は粉ではなく、石で大きかったんです。そのまま口に入れると、塩味で気持ち悪くてどうしようもない。でも、水に溶かせばちゃんと飲める。
悪いことも、薄めることができます。
しかし、一リットルの水に塩一かけらを溶かしたからと言って、塩が体に入らなかったわけじゃないんです。入ったけど、悪影響は出なかった。
ということになります。
業の場合は、輪廻転生で、どんな悪行為の結果も、次から次へと出るということではないんです。やはり使用期限があるんです。
たとえば70歳の人が人を殺したとしましょう。人間の世界では、業と関係なくその人を裁きます。それで、警察に証拠がそろうまでに時間がかかる。裁判に時間がかかる。その間にその人は心臓発作を起こして死ぬかもしれませんね。心臓発作を起こして死ぬことは自然な死に方なんですね。死んでしまうと、法律では裁けません。
裁判で裁くならば、その人が生きている間にやらなくてはいけないんですね。死んじゃったらどうしようもない。
輪廻の場合でもそういうことは起こるんですね。
条件がそろわないと、悪行為の結果が出ない可能性があります。わたしがいつでも皆さんに慈悲の瞑想をしなさいというのは、われわれにとってはいつでも、過去世の不幸な業が割り込もう割り込もうとしているんです。過去でやった悪行為です。割り込もうとしているんだけど、慈悲の瞑想で割り込めなくなっちゃうんです。そこで、使用期限が切れてしまうんです。
人殺しなどの大きな罪っているのは、世界では裁くかもしれませんし、そう簡単にチャラにすることはできませんが、それでもこの慈悲の実践で、大した罰にならなくなってくる。
そういうことで、自分が自分の行いの結果を受けます。
それには使用期限というものがあります。
だからお釈迦様は、人間は悪いことをやるかもしれませんが、繰り返さずに、たくさんよいことをして濃度をかなり薄くするという方法で解決します。
(β関西活動報告 : '15 1/12 関西定例瞑想会@マーヤーデーヴィー精舎 ■Q罪を犯したら逃れられないのか■ よりメモしました)
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