よく考えてみると、宗教というのは何なのか、と。
宗教というのは二面性を持っているんですね。表と裏という。
表では偉そうなことを言っていますね。しかし、実際に何をやっているのか。
宗教には二面性があることは確かなんですね。
仏教も宗教に変身してから、同じことになっています。仏教も宗教としてみてみると、表では解脱やら涅槃やらいろいろなことを言っています。実際には何をやっているのかというと……。
宗教になるとそうなってしまうんです。だから正直になったらどうですか? 裏と表じゃなくてね。
正直になって考えれば、人間というのはあの世をそんなに気にしないんですよ。たとえば、神様を信仰している人びとは、本気で神様を信じているならば、死後、究極に幸福な神様のところにいけるなら早く死んじゃったほうがいいでしょ? しかしこの世の中でいまだに生きていて、何をやっているのか。
一部の人は、本当に早く死のうとして、ついでに周りの人々も一緒にと、がんばっていますけどね。
予言者というのは神様と人間の関係を取り持っている人ですね。何で神様は人間と直接関係を持とうとしないんですかね。これも大きい問題です。
病気になっても薬を飲んで治ろうとしますね。病気になったら、ああこれで神様のところへ行ける! と喜んでもいいのに。
やっぱり、二面性がはっきりしていますね。
天国はあるんだけど、できるだけ後回しにしたい、と。
日本仏教から言うと、極楽道はあるんだけど、できるだけいかないことにしたい、と。仕方がなく、死んだら行きます、と。なんでしょう、この人間性は。素直でない、正直でない、宗教の世界は。
ここでわたしが言いたいのは、「正直になりましょう」と。
まず大事なのは、正直になることなんです。それで、正直になってみると、自分は死にたくはない。できるだけこの世の中で生きていきたい。結構豊かで、健康で、負けたくはないし。いろいろ願い事がかなってほしい。そこが心の正直なところです。
お釈迦様はそこから話を始めるんです。だから宗教になっていないんです。
わたしは他宗教の方々と、むかし付き合いがありました。そこで真剣に神様を信じている人びとを見ると、ご利益的に何かいいことが自分にあったということになるんです。
たとえば、事故になって奇跡的に助かったので、神様を信じています、という。奇跡的に助かったのは神様の力だという証拠はないんだけど。事故は誰のせいで起こりましたかと、そこは(言及が)ないんだけど。事故が起きて友達は死んじゃったが自分は助かったと、それでいいのかいと、そういうのはあんまり考えていないんですね。自分が助かったことに、神様が助けてくれたと信じているんですね。
その時もはっきりしていますよ。「自分の命を助けてくれて、神様ありがとうございました」と。天国に連れて行ってくれて、ではないんですね。
だから真剣に、いろいろ不幸な出来事があって助かった人々は、まじめに神様を信じています。難病が治った人々も、「神様ありがとうございました」と。
そこでも、自分を助けてくれたことを言っているんであって、天国の話は入ってこないんですね。
ですから、ポイントは、人間はなんで正直ではないかということです。
すごく正直だったら、問題はややこしくないんです。
たとえば人づきあいでも、はっきりと「わたしはあなたのことは嫌いですよ」と言ってもらった方が楽なんです。嫌いなのに、にこにこ笑ってくれると、なんかごちゃごちゃになるんですよ。
嫌いな人は結構いるんだけど、余計また正直じゃないんですね。理屈があって嫌いだったら、処理できるかもしれないし、理屈がなければ諦めることもできるし。
心が汚れていても、正直な方がやりやすいと思いますよ。
基本的に乱暴な人びとは、すごく育ちやすいんです。善人ぶっている人びとは、ものすごく育ちにくい。
正直というところに戻りましょう。
死後どうなるのかということは、わたしたちにはどうでもいい。この世の中で楽しく生きていれば、というのが正直なところなんです。
正直なところから考えると、法則があるんです。
たとえば、ずっと生きていきたい、死にたくないと思っている人びとはその衝動で生きています。その生き方が、反対に働きます。金を儲けたい、という衝動が、持っている財産を失くす方向へ働く。
コーサラ国王が言っていたのは、人間は自分自身が大好きで、自分を敵に回す、と。なんで自分を敵に回したのかというと、自分のことが好きだからなんです。こういうふうに、素直な心に戻っていくと、そちらに矛盾が働いています。*1
天国やら、そんなのは関係ない、人間には。
たとえば、日常幸せに生きていきたい、というところで正直なんですけど、そこで、日常の生き方が、幸せじゃない生き方を選ぶんです。
というわけで、祈れば祈るほど逆効果になるんです。お守りを買って買いまくれば、その分不幸になるんです。すべて逆効果になるんです。
ただみんな行っているんだから、みんな買っているんだから、その程度でお守りを持っても別に不幸にも幸福にもなりません。その場合はあまり心に影響はないですから。
そこで人間が俗世間的に期待する幸福は、ダメというわけじゃないんです。理論的に考えるならば、せっかく生きているんだから、幸福に生きていた方がいいんです。
必ず死ぬんだから、一日でも伸ばしても悪くないんです。
でお釈迦様が、その方法を教えているんです。本当に幸せになる方法。
「真理に従ってください」それだけです。
真理というのは事実ですから、心はどのように働くものか、心はどんなふうにしてどのような結果になるのかと、よく理解して、その法則に合わせて生きてみる。それが幸福の道なんですね。
たとえば金儲けがしたいと。だったら法則があるでしょ。
法則にしたがって生きてみなくちゃいけないんです。
金が欲しいと思ってもお金は降ってこないし、大黒様がお金をくれるわけじゃないし。大黒様の話は法則を侵しています。
豊かになりたい、儲かりたいと思ったら、論理的に変な考えではないんですね。やっぱりどのようにすれば、そのような流れになるのか、と。いたって簡単で、自分が何を貢献しているのかということで、その見返りとして豊かになるんです。
お釈迦様も、「与えたら得られますよ」と。その方が覚えやすいんです。
商売すると、仕事をするということは与えることをやっているんですね。その与えることが本物で、与えられる側に役に立っているならば、自分が見返りを得ます、自然に。
だから法則はそうなっています。「与えるものが得る」という決まりに。それは変わりません。地球の自転公転と同じで、どうすることもできないんです。
人間関係の場合でも、誰でもよい人間関係を築きたいでしょう。法則があります。優しい人に、相手も優しく反応する。それだけ。そんなに難しいことじゃないんです。
だから、自分の心の中から「わたしは優しい人間か?」と聞いてみて、自分が優しい人間だったら、法則が回転していきます。
あえて、たくさんの人間とうまく付き合いたいと思うと逆効果になるんですね。法則守っていないんですね。迷惑になるんです。なんかいい顔してみんなにごちゃごちゃやったりして、人付き合いをするというのはできません。逆に「うるさいや、この人は」と。ということになってしまう。
金儲かりたい、と思ったとたん、財産というのは世界のものだから、「取りたい」とすると泥棒と同じなんですね。そうすると世間の財産というのは固くなってしまう。自分の方に回ってこないんです。
だから追いかけると逃げるということなんです。
たとえば、自分の家の窓の外に、きれいな鳥がとまっているとね。掴もうとすると、鳥もすぐ逃げるんです。掴もうとしないで、鳥さんが気持ちよくいられるように、なんとなく放っておけば、長いこといるんです。その鳥を見て楽しんでいますよ。またどこかに飛んで行っても、また戻ってくるということもあるんです。お互い何の束縛もなく、楽しむことができます。
そういうことで、お釈迦様が、「真理にしたがう者は真理が守ってあげます」「法則にしたがう者は法則によって守られます」というひと言葉が、真実の言葉で、それが祝福の道なんですね。
だから、できるだけ皆様方はブッダに説かれた法則だけ守りましょう。それを守っておけばすべて失敗ないんですね。悩むことも何もない。すべて公転していくんです。
何の悩むこともなく、すごく楽しく生きていきたければ、ブッダの教えを理解して、「それが真理だ」っていうくらい確信が必要なんですね。本当のことをお釈迦様は教えた、何の偽りもないんだという確信さえあれば、なんかあったらすぐ自分の心がそちらの方に変わってしまうんです。
そういうことで、確実に幸福になれます。
皆様にはすごく幸せな年になりますようにと祝福いたします。
(2015年新年法話 関西定例瞑想会
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/2121121.html ■2015新年法話■ よりメモしました)
関連エントリ:テーラワーダ仏教と日本の仏教との違い。日本人なら禅宗でいいのではないですか?
すべての「説法めも」を読むには:
*1:
「コーサラ国王は、いい加減な仏教徒でした。ある日、犯罪者に対して次々に処刑命令を出していました。「今日は何人殺しちゃったかな」と、国王はなんとなく気持ち悪くなって、お釈迦様の所へ行きました。それでお釈迦様に偉そうなことを言うんですね。お釈迦様も一応、コーサラ国民でしたから。*2
「人間と言うのは、自分を大事にすべきです。しかし大事にする方法が分からないのだ」と。
「自分を守りたければ、正直に言いなさい」と国王は犯罪者たちに言いたかったんですね。犯罪者はみんな、嘘をついて自分を弁護していました。素直に罪を認めて懺悔しなかった。それで国王は、減刑できずに死刑を命ずることになってしまっていました。…… 」