ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

「管轄外にする」という仏教的な生き方【日本のお寺 1】

質問「最近、日本の大きなお寺などに行くことが多いです。

どこに行くにも拝観料、秘仏公開などで入場料がいる。維持管理に必要だと思いますが……。人を導くような仕事をしているのかな? という疑問があったり。

仏像の本を読んだりすると、いろいろな世界の阿弥陀如来大日如来などあったり、戒名というと死んだ人に対するものと思っていましたが、戒名というのは、戒を授ける、出家する時につける名前だと最近知りまして……。死んだ人への戒名ということでそこでまたお金を取られて……。

日本の仏教が何をされているのか、いまいちよくかわからない。

上座部仏教を勉強実践していきたいと思っていますが、日本のお寺、お坊さんの話などに対してどう接し、どう考えればよいのか? お聞きしたい。

 また、同じ神様のこといってるんだろうけど、ゴッドであったり ヤファエであったりアラーであったり、神の名前が変わると宗教が全く別になってしまいます。

如来がばらばらなのに同じ仏教でひとくくりなのも不思議だなと思ったり……。

これらについて、長老のご意見を聞かせていただきたいのです

 

回答(スマナサーラ長老)

別にわたしから言うことは何もないんですけどね。

人のことをあれこれ言うのはわたしの仕事ではございませんし。

人類にとって、生きる道が間違っていていろいろ問題が起きたりすると、人間の役に立つことはしゃべります。

 

あの組織、この組織、と言うことについてはわたしの管轄外なんですね。

皆様が悩んだり困ったりしているならば、幸福がないならば、その道を教えてあげることは仏教の仕事なんですね。

だからわかりやすく言えば、「わたしはどう生きればいいか」と言う質問に答えることがブッダの仕事で、そのブッダの教えを学んでいるわれわれの仕事でもあります。

「あの人は何やっているんでしょうか?」と聞かれても、「関係ないんだよ」と(笑)それが仏教的な答えなんですね。

 

お釈迦様の3番目の弟子、マハーカッサパ尊者があまりにもお偉い方で、サンガのお坊さんたちの間にあまり入らなかったんです。ちょっとお釈迦様に対して失礼だと思ってね。なぜならばお釈迦様が自分の来ていた衣をマハーカッサパ尊者にあげたんです。尊者が出家したその場で。これだけで大変なことなんですね。皆様にとっては大したことはないでしょうけど。

お釈迦様は自分の手で、遺体に巻いてあった布を取って、きれいに洗って、縫って染めて、着ていた衣なんです。

マハーカッサパ尊者は、お釈迦様が特別に気にしていた方でしたので、サンガの中で生活しなかったんです、お釈迦様が涅槃に入られるまで。

 

それで、ある山の中に洞窟がありまして、結構いいところで、マハーカッサパ尊者はその中に居ました。その場所は有名で、他の修行者もよく行ったところ。ある若いお坊さんたちのグループが、なかなか顔を合わせることができない偉大なるお釈迦様の弟子がここにいるんだ、とせっかくだから行ってみましょうと。挨拶をして、説法でも聴こう、ということで長い道のりをたどって、尊者の洞窟へ行ったんですね。

 

そしてお坊さんたちはマハーカッサパ尊者に礼をして、そちらに何日間も泊まったりするでしょうと思いますけど、周りをいろいろ見学するんです。見学しながら、尊者の洞窟の中もよく見るんですね。見たら、洞窟の天井に、絵がかいてあったんですね。花の模様なんですけど。

 

お坊さんたちは、

「先生、とても立派な天井画ですね」

するとマハーカッサパ尊者は、

「え? 天井画って何?」

と聞いたんです。

「先生の頭の上に、天井画があるじゃないですか」

「ああ、なるほど。よかったねぇ、君たちに目が有るんだから。わたしは初めて知ったんだよ。もう何十年もここに住んでいたんだけど」

それまで上を見ていなかったんです。

 

同時に若者たちを厳しく叱ったんです。何のこともなく。「目が有ってよかったねぇ」と。尊者は、自分は目がなかったような気持ちで。

 

つまりどういう意味かと言うと、「管轄外だよ」と。関係ないんだよと。

 

人びとがやっているくだらないこと、無意味なことに関しては、仏教では管轄外と言うことにするんです。

だからあの場合は、世の中でこの花がきれい、あの人が美しい、あの風景が、といって喜ぶのは、仏弟子たちとしては情けない。みっともないんだと。それを逆にとって、「よかったね、目が有って」という厳しい言葉なんです。

 

目が有ってよかったのではなくて、あなた方は目で見てどれほど心を汚しているのかと。思う存分目を使って。

マハーカッサパ尊者は、顔を上げて天井画さえ見ていない、何十年も住んでいるのに。そのマハーカッサパ尊者がいかにすごいかと言うことです。

 

今われわれが学んでいる仏教は、マハーカッサパ尊者が整理整頓して指導したものなんです。だから、この世の中で、いまだに原始仏教が生き生きしているのは、マハーカッサパ尊者の腕なんですよ。しかし、尊者は天井画さえ見ていなかったんです。

 

これで分かるでしょ、お釈迦様が衣を尊者へ差し上げた意味が。

 

サーリプッタ尊者、マハーモッガラーナ尊者という、一番弟子、二番弟子がいたんですけど、お釈迦様が涅槃に入られる前に、この二人は涅槃に入ったんです。偉大なる二人なんですけど、お釈迦様からしたら「この二人は役に立たんや」(笑)、役に立たないとは言ってないんですけど、お釈迦様と一緒に活動しているんだから、三人とも一緒に涅槃に入られると、それからどうするのか、誰が弟子たちのことを心配するのか、といったところでやはり、マハーカッサパ尊者が、長生きなさったんだからね。

 

お釈迦様がいる間は、社会と何のかかわり合いも持たず、じーっと待っていたんです。

 

それで皆様に教えたいことは、「あれはどうなっているか、これはどうなっているのか」と気にすると、かえってわたしたちの心は汚れて混乱して、人間関係も崩れて、うまくいかないということなんですよ。

 

外のゴミを、自分の膝の上に載せるなよ、と言う喩えで考えればね。ゴミがあったら持ってくるぞと思っちゃうと、どれだけゴミがあるんですかね、外の世界で。

 

正しいことは、外のゴミを持ってこないことなんです。

 

これが、仏教的な、われわれが辿るべき生き方なんです。

 

質問には後で答えますけど、それより先に、ブッダの教えを教える人たちはどのように生きるべきかということは、それが答えなんです。

 

それは管轄外だ、と。*1

 

自分の心が汚れることは危険視して、自分が乱れることはよくないといつも冷静に、清らかな心で、美しく明るく生きる、ということが一人一人の仕事なんです。

 

ちょっとだけでも、気づくことができなかった瞬間で、サーッと外のゴミが割り込んでくるんです、心の中に。それは自分の過ちであって、外の世界の過ちではありません。

 

そこでかなり宗教というのは、ご利益を売ったり、祈祷したり、救済したり、除霊、いろいろとカラクリをやっているんです。しかし明確にそれは商売であって、そういう方々の職業なんですね。

 

そういう組織が悪いのかとわたしに聞くならば、「あんたが悪いんだよ」と答えます。

 

乗ったあなたが悪いんだよ、と。それに心が悩んでいるなら、それはあなたの責任でしょう。そういうのは管轄外と思っていれば、何事もないんですよ。

「自己直し」が「世直し」です【日本のお寺 2】 - 瞑想してみるに続きます)

 

(関西定例瞑想会 2008.05.11

http://www.voiceblog.jp/sandarepo/577302.html 音声ファイル:一番下よりメモしました)

*1:ここで、「じゃあ、自分にとって何が管轄外で、何が管轄内なのか?」という疑問が湧いてきます。過日の記事 スマナサーラ長老にも解決できない一つの大きな問題【日本社会について】  に「組織がダメなら、その組織を改良するのも組織の人間の仕事なんですよ。」とありました。日本人には日本社会・政治が管轄内なんですね。管轄内のことなら、自我を出さずに謙虚に、しかしきっぱりと意見を言うことが必要なんですね。仏教を学ぶと、社会問題から遠ざかったり浮世離れするわけでもないようです。それでいて、「自分が乱れることなくいつも冷静に、清らかな心で、美しく生きる」……。どんだけ難しいんでしょうか。でも「難しいからやらない」というのは理論的ではないですね。

 

同時代・同じ国に、同じ言語をしゃべる智慧ある人がいるということは、とてつもない幸運だと実感します。スマナサーラ長老の説法を聞いていくと、「わたしたちが、今を、どう生きて行動すべきか?」が見えてきて、いつもハッとします。

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