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ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

ブッダに有って、大乗経典に無いものとは?【日本のお寺 4】

説法めも 仏教と日本・仏教哲学

お釈迦様が「人間」だと困る人たちとは?【日本のお寺 3】より続きます)

大学で最初に言われたことは、「こんな服装(橙色の衣)では困りますよ」と。「日本の仏教大学だから」と。そこでわたしがすぐ言ったのが「では教授、どんな服装をされていますか?」と、見たら、背広です。

 

わたしは、

「ブッダの服を着たらダメなんですね。どういう理由でしょうか?」

「いえ、ここは俗世間の大学ですから、背広です」

「そういえばそうですね。大学は俗世間のものですから。理屈は合っていますよ」

そう言って褒めました。

そこへ、ある人が通りました。

「ちょっと待ってください、あの人は何者ですか? あの日本のお坊さんの服を着ている」

「あ、あれは、大学で二番目の偉い……」

「なんであんな変な服着ているんですか?」

 

わたしが褒めたら危ないんです。ものすごい爆弾を用意してから褒めるんです(笑)

大学二日目でそういう調子だからね。

 

「あなたは日本の仏教についてどう考えているのか?」とわたしに聞くのは、今さら何考えているんでしょうね。

 

わたしは日本でお世話になっているんだから、日本をけなしてはならないし、日本人には二千年以上の文化がありますからね、それをけなしてはならないんです。素晴らしい文化がありまして、外国の人が日本に住むなら、それに合わせて、評価して住まなければいけないし、文化・しきたり・習慣が嫌なら出ていけばいいし。

 

そういう人間の常識があるんだからね、それは黙っているだけで。別に日本の文化やしきたりが嫌なら、ここにいるわけはないでしょう。わたしは嫌でもなんでもないし、かなり文化的に発達しているから生活しやすいし、お互いに邪魔しないし。差別はあるんだけど、面と向かって人を馬鹿にするようなだらしない人間でもないし。(2008年5月当時) 差別があっても、「ま、気にしなければいい」で私の場合は、済むし。

 

ある教授が、ずっと毎日わたしの(大学の)部屋に、最終電車になるまでいるんですね。しゃべりたくて、知らないことを質問して教えてもらいたくて。

人間としてずいぶん仲がいいんです。それでしゃべっているときに、われわれの仏教をけなすことは、思う存分けなすんですね。「いくらなんでも、自分たちで悟る世界だからね、人の役には立ちません。大乗仏教は全体的には『大衆の救済』ということを考えているんだ」とかね。わたしに一応データが溜まるんです。わたしは反論はしないんです。(心の中で)「まだまだです、まだまだです……」と(笑)

 

それで先生はわたしの書く論文を読んでくれたりもするし、何か文章を書こうと思ったら、資料を教えてくれるし、助けてもらいました。でも抗議するにはまだまだ、と(笑)

先生は一生懸命研究していたしね。法華経なんとかでしたけど。

 

で、わたしはある論文のあるセクションを書いていて、どうしても批判的に書かなくてはいけないところになって、

「先生、今わたしはポイントに引っかかっていますよ」

「え、どういうこと?」

「この、慈しみなんですけど、今、比較しなくてはいけないんですけど、大乗仏教は救済について言っていますが、慈悲について何か言っていますか? 大乗仏教で」

 

大乗仏教で慈悲の概念を扱ったところはありますか? どこでもいいから」と。

 

言ったとたん、先生はガクッとショックだったんです。

 

わたしの論文にその資料はどうしても必要だったので、先生は調べてくれました。結果は、

「やっぱり大乗経典には、慈悲の概念はないねぇ」

 

ないことは、最初から言っていますけど。慈しみはないんです、大乗仏教には。

 

それである東大の先生にもいろいろお世話になりましたし、彼の紹介でむかし東大でも仏教講演をずっとやったこともあるし。

彼が突然別の攻撃。「パーリ仏典の慈悲の話はね、これは仏教の話じゃないんだ。後から付けたものです」と。

「あなたちゃんと調べたんですか?」

証拠も、出典も、参照も、何もない。

それで友人としての縁が切れました。

 

攻撃のやり方が問題なんですね。大乗仏典に慈悲がなかったら、ブッダにも慈悲がないということにしましょう、と。やっぱり宗教として人を救済してあげて金を取ることがわれわれの仕事である、と。その人もお寺の人でした。

 

恐ろしいんじゃないですかね、よくよく見ると。

 

言いたいのは、人間に幸福の道を語っているなら、そこを邪魔するつもりはわたしにはないんです。薬だと言って毒を飲ませているなら、わたしは「じゃあこれも飲んでみたらいかがでしょうか?」というだけの話です。それを飲んだら病気が治ったならば、その後は本人が決めることです。

毒を飲み続けるか、薬を飲むのか、というのはその人の自由です。

 

だからお釈迦様ははっきりと言っているんです。

「わたしは道を教える、師匠として。仕事するのはあなたですよ。わたしは救済者ではありません」

 

救済者っていうのは詐欺師なんです。

救済は成り立ちません。わたしたちは自分で呼吸して、自分でご飯食べて生きているんです。赤ちゃんはお母さんのおっぱいを飲んでいるかもしれませんが、自分の口でおっぱいを吸っているんです。赤ちゃんの体がそれを消化しています。自分の力で生きていることは明白な事実です。

 

そこをかなり変な道で行くんだから、自分で調整しなければいけない。調整方法がわからないから、お釈迦様が教えてくれる。

 

自分の解放、自分の解脱、自分の悟り、自分の幸福っていうのは、自分の腕で築くものです。やり方はブッダが教えてくれる、という世界が、仏教でありブッダの教えなんです。

 

それは世間にある宗教と違って、論理的で科学的なんです。誰にも批判することはできません。批判は、誰かが間違って仏教を伝えたこと、例えば「マーヤ―夫人の右脇から菩薩が生まれた」ということに対してです。*1

ブッダは女性差別者ですか?【日本のお寺 5】に続きます) 

 

(関西定例瞑想会 2008.05.11 スマナサーラ長老説法

http://www.voiceblog.jp/sandarepo/577302.html 音声ファイル:4番目よりメモしました)

f:id:thierrybuddhist:20150225113510j:plain 

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【目次】説法めも

*1:お釈迦様が「人間」だと困る人たちとは?【日本のお寺 3】 より  ” お釈迦様が脇から生まれた、と言う話は、お釈迦様が人間では困る、神でなければ困ると考えた宗教家によるものです。

このエピソードは、テーラワーダ仏教の国では聞いたことのない話なんです。元々あった話ならば、われわれが知らないはずがありません。

 

わたしたちが知っているブッダの場合は、マーヤー夫人というお母さんがいて、スッドーダナ王という父親がいて、明らかにその父親の子供なんです。バージンじゃないんです、マーヤ―夫人は。夫人の妹もスッドーダナ王と結婚していました。われわれはそういうふうに知っています。”

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