質問
「修行というと滝に打たれるとか、一日中ずっと何かをしているとか、我慢をしているとかそういう風な感じで思っていたが、長老の本などを読むとその辺がなんか違うような……。
あと、カルマ(業)についてなんですが、悪い行いをしてきたことが、修行で何か変わるのでしょうか?」
回答(スマナサーラ長老)
世の中で「修行」ということと、お釈迦様の修行は違います。
お釈迦様の修行は「生き方」なんです。
正しく、生きる。
間違った生き方なら意味がないでしょう。当たり前のことを言っているんです。
どうせ生きているんだから、だったら正しく生きなさいよと。生きるためには自分で判断しなくてはいけないんですよ。判断を間違っちゃうと最悪でしょう。そういうことだから、正しく判断して生きることですよ。
修行って言葉を使っちゃうと、日常生活とは違ったことということになるんです。毎日やっていることをいったん止めて、ちょっと変わったことをする、と。その変わったことは、「キツイこと」である、というのが世間でいう修行です。仏教はそれを認めません。
無知な人の話には乗りません。そこははっきり言います。修行を完成した人の話なら聞きます、素直に。無知な人の話は、まるっきり、きれいさっぱり捨てる。
そういうことだから、「世間の言葉には乗らない」ということを、まず覚えておいてください。
智慧の完成した人が言うことをする、という。
それで智慧を完成したのはお釈迦様ですからね。お釈迦様がおっしゃっているのは、「正しく生きること」なんです。
たとえば、仏教の中身に入って説明すると、お釈迦様がおっしゃっている方法は「道」と言うんですね。修行と言っていなんです。
道というのは、生き方なんです。
それは有名ですよ。「八正道」。八項目の正しい道。*1
この八項目は何なのかというと、ものすごく意味が深いんだけど、うわべだけ見てみましょう。
- 正見(しょうけん)。 物事に対する見解。正しい見解を持ちなさいと、当たり前のことでしょう。
- 正語(しょうご) 正しい言葉を語りなさい。
- 正業(しょうぎょう) 正しい行為をしなさい。行為は体で行うこと。
- 正命(しょうみょう) 正しい仕事を選びなさい。
- 正精進(しょうしょうじん) 精進する場合も、正しい精進。なんでも頑張ればいいんじゃなくて、判断して決めてから努力する。
- 正念(しょうねん) 常に気づきがあることと。
- 正思惟(しょうしゆい) (無害心、無瞋恚、無貪欲)
- 正定(しょうじょう)集中していること。
(今挙げた八正道は)なんにも不思議なことはないでしょう?
今やっていることをやめて、山の中にこもってくださいとか、何にもないんです。その八つはわれわれ毎日やっています。24時間やっています。何かする場合は、どうしても自分の「見解」という物があって、考えたり行動したりしているんです。
この毎日やっていることを間違えないでちょうだい、というくらいのものなんです。
ですから、修行ということはないんですね。
生き方を、正しい道に、入れてあげる。
たとえば、わたしたちはしゃべりますけど、しゃべるべきことだけしゃべることにする。
いろんなことをしていますけど、正しいことをする。
だから仏教は真理をすべて語っているんだから、大変な膨大な量がありますよ。勉強しようと思ったら、勉強することはたくさんあります。
八正道の一つ目の、「正しい見解」。これは何なのか? 結構難しいんです。
でも、ひと項目合格したら、すべてそろっています。
見解というのは、頭がしっかりすることなんですよ。その場合はね、人が言うことに乗るんじゃなくて、現実、事実を見て、見解を発見するんですね。ありのままの姿。
例えば、地球が丸いということはわれわれは発見するんであって、地球が丸いと判断するんじゃないんです。初めから、丸かったと。ああそういうことか、なるほどよくわかりました、ということなんです。
別に誰かの見解を受け入れたわけじゃないでしょ? 事実を調べていくと、当然の結論に達しただけなんです。
当然達するべき結論に達しただけなんですよ。正しくデータを調べた人は、みな同じ結果になっています。それで世の中で異論と言えば無数でしょう。一つのことについても、異論はいくらでもあるんですよ。無知な人は、そこを合わせて、大勢の人が言う結論に同意するんです。だいたい世界はそういうふうになっています。みんなが言うことの方へ行ってしまう。それで分かるのは、「無知だ」と。自分でデータを調べてないんです。
一つのことについて無数に意見がある場合は、おおざっぱにいえることは「誰もわかってない」ということなんです。
「わたしはこういう意見だよ」という場合はやっぱり、「分かってない」ということです。
「これはこうなっているんだよ。わたしの意見とか、あなたの意見ということじゃなくて」という場合は「知っている」んです。
例えば地球が丸いということは、わたしの意見じゃないんです。誰かの意見じゃない、最初に発見した人の意見じゃない、そうなっているんです。
最初に発見した人の名前は、○○さんが最初に発見しました。でも○○さんの言うとおりに地球が丸くなったわけじゃないんです。だから、たくさんの意見がある場合は、「みんな知らない」ということか、あるいは、「ひとつだけ意見が正しいか」どちらかです。
その中で一人が、正しく言っているとしましょう。その場合もその人が「わたしはこう思いますよ。わたしの意見ではこう言いうことだ」と言ったならば、言っていることは本当なんだけど、その人は知らないんです。
例えば、嘘をついてはいけない、というのは一般的な考えでしょ。
でも誰も知らないんです、嘘を言うことはダメに決まっている、危険に決まっていると、と。
だから、「嘘をついてはいけない」といいつつ、みんな嘘をついています。だから、あれ(嘘をついてはいけない、と人々が言うこと)は意見だけ。その意見は正しいんだけど、言っている本人は真意を知らないんです。
だから世の中どうなっているのか、自分の命って何なのかと、発見することが「正見」なんです。正しい見解だと。
結構難しいでしょ(笑)
本格的に仏教の中に入ると結構大変です。
だから、八正道というのは「言う」のは簡単です。一項目完成するんですよ、人間というのは。そうするとほかの七項目もついてきて完成して、それで終了になるんです。
特別に修行、修行、ということは成り立たないんです。
何かやろうとするとき、世間の話に乗らないこと。
どうしても乗らなくてはいけない時は、データを見る。調べてみて、とりあえず、これにします、と。「これが正しい」というわけじゃないけど、今の状況では、まぁこうするしかない、と。
一時的な判断で行って、またデータが変わると別な判断をして、最終的に正しい見解になるまで努力しなくてはいけないんです。
(修行で滝に打たれたりしないんですか?【八正道-正見】中編 へ続く)
関西定例瞑想会 2008.02.17
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/510540.html 音声ファイル・下よりメモしました。
関連エントリ:
すべての「説法めも」を読むには: