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ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

感動することもイケナイんですか?【不善心所・ローバ 1】

質問

「最近、ヴィパッサナーや原始仏教の本を読んで、慈悲の心とかヴィパッサナーというのも大切だと思いました。

しかし、それと同時に人というのは自然の美しさなど、「感動」することも大切なことかなぁと私は思っています。

マザーテレサさんも笑顔が大切だと言っていて、「うれしい」などの感動がないと笑顔は生まれないのではないかと。

しかし、日本テーラワーダ仏教協会のHPの中で、「不善心所」の項目で感動が「ローバ(lobha)」にあたる心のはたらきと解説されているようです。そうすると、感動というのはすべてよくない不善心所にあたるのかと疑問に思いました。*1

 

自分としては、「うれしい」「楽しい」などの感動は積極的に体験するべきと思いますが、ヴィパッサナーと生活の中で両立できますか?

 

回答(スマナサーラ長老)

 

一つ喩えを言います。

世界一流の植物学者がいる。ある一般人の人が、お花の先生が見事に生けた花を見て、なんてきれいかと感動する。一流の植物学者もそれを見る。植物学者は「ああ、きれいでビックリしました」とはあまり言わないんです。しかし隅から隅まで花のことを知っているんです。

 

感動している人に、「あなた、この花の名前を知っていますか?」と聞く。その人は「ええ、全然知りませんよ」と答える。しかし植物学者は、この花がどこで初めて発見されたか、どんな自然環境でいるか、いまどのように改良されているか、なんで花弁がこんな形なのか、なんでこんな色になったのかと、ありとあらゆることを分かっているんです。

 

「なんでこんなにきれいでしょうか」というのは品がないんです、結局は。

 

仏教は超越した世界のことを語っているんです、初めから。

 

そこで、仏教の本を読み始めた人々は、あなたと同じく、なんかガクッとがっかりします。それはやがて消えます。

 

われわれが言っているのは、「俗世間の中に入って、みんなと一緒に泣きましょう」という世界じゃないんです。

 

マザーテレサさんがやったようなのは、女性同士がよくやることでしょう。子供がなくなってお母さんが泣いていると、他のお母さんたちが来て「悲しいですねぇ」と自分でも泣いたりして慰める。何の役にも立ちませんよ。

 

みんなで一緒に泣きましょうよ、あなたが悩んでいるなら私も一緒に悩む、というのはね、そのレベルと、超越したレベルでは立場がずいぶん違うんです。

 

だから、みんなやっていることと同じことをやりましょうよ、というのと変わらないんですよ。

それでは問題が解決しません。楽しかったり、感動することで人類の問題が解決するならば、もうとっくに解決しているんです。

 

あなただけじゃなくて、だれでも、美しいものを見て楽しいと思っていますよ。でもどうにもなっていないんですよ。

 

感動するものを探すことは、みんなやっていますよ。でも世間はそのままなんです。

 

だから、それは誰でもやっていることであって、特別な智慧で発見することではないでしょう。あなたにしても、楽しいと、きれいだと、感動する訓練が何か必要ですか?

なにもいらんでしょ。そのままでできるでしょ、原始レベルで。

 

それではだめだと。もうちょっと成長しなさいよ、上がりなさいよ、レベルを超えなさいよ、と。

 

マザーテレサさんも、あの世界で動いただけで、何の精神的な上達もなかったんです。返って、頭の中が疑問ばっかりで。ちょっとでも仏教の話を聞いていたならば、立派なことをやっていた人だからね、びっくりして立派な聖人になれるはずでしたけど。

聖人にはなれず、聖人という「格」をもらっただけ。

 

これ、誰もがやっていることが正しい、ということにはなりません。

 

前に言ったたとえ話と同じで、例えば、世間で見れば植物学者が、隅から隅まで知っている。その人にも感動あるよ。ありますけど、わたしたちにはわからない、植物学者の感動は。たとえば、養老孟司さんが虫を集めたりするでしょう。「気持ち悪い虫なんて」と思わずにエラく感動するんだからね。いろんなところに行って、気持ち悪いやぶとかに入って虫を取ったりして、わたしはそれに大反対ですけど、言っても聞いてくれないんだから(笑)

一般人がまるっきり行きたがらないところに行って、感動するんです。しかし学者ですよ。一流の。その感動をわれわれは分からないでしょう。

 

量で、質でいえば、誰がより感動するんですか?

 

質問者

「すみません、それはそれで正しいと思うんですけど、より次元の高い感動は分かる人は分かるでしょうが、まだそういったものが分からない人たちと、コミュニケーションを日常の生活でしていくわけじゃないですか。

 

で、そうなったら、自分だけ次元の高い心境にいたとしても、周りの人が俗世間の感動で過ごしていて、人と人との共感は同じ感動じゃないと成立しないのではないでしょうか?

 

養老孟司さんが「バカの壁」という本を書いたでしょ? かなり売れたでしょ。あの人はあれで億単位で儲けたんですけどね(笑) いいことに使っていますよ、お金は。ほんとに立派な方で。

 

それでみんなあの本に感動したんです。

あなたがたは、偉い人の感動へと上がるしかないんです。

あの「バカの壁」で、「みんな馬鹿だ。あなた方は知恵に壁を立てかけているんだよ」と。「10円あったらすぐに見えますけど、何とかと言う毛虫は見えていませんね」と。だから、それがバカの壁と言って、自分に興味あるもの以外にはすべて、壁を作っているんだよと。これ、破ってください、面白くてたまらないんだよ、世界は、と。

 

それを読んでみんなびっくりして、世界をなんとなく、ちょっと鍵穴から見たような感じで感動したんです。

 

だから、上の世界の人々は、あなたが考えているような次元に堕ちるというようなことは良くないんです。

あなたがたに「こういう世界がありますよ」としつこく言うべきなんです。それを誰でも言っています。

 

だから、高い次元の感動を知っている人は、みなにそれを言い続けているんです。壁を作っている人には聞こえません。

 

やるべきことは、先生が教えるんであって、生徒が教えるんじゃないんです。生徒が分からない場合は、先生はいろいろ道具を持ってきたり、紙芝居をやったりして教えますけど、これは生徒のレベルに堕ちたわけではないんです。紙芝居を作るというのは大変な労力なんです。紙芝居でも作って、それをみて生徒たちには、ちょっと上のことを分かってほしいんです。それが世の中であるべき姿なんです。

 

みんなと仲良く分かち合いという世界ではないんです。それは物の場合です。物はみんなで仲良く分けちゃいます。

智慧や知識の場合は、教えてもらいなさいという、一方的です。

生徒が「分からない」といったら、それはこちら(先生)の責任だからね、「じゃあ、分かるようにしてあげますよ」と。それも上の方の仕事なんです。

 

だから素直に、「分からないことは分からないんだ」と言えばいいんです。

捨てることはしません。

 

問題は、一般人が壁を作っていることなんです。

 

そういうことで、このシステムはそういうことです。

知っている人から学べ、と。

感動の表と裏【不善心所・ローバ 2】に続きます) 

 

(関西定例瞑想 2008.04.20

http://www.voiceblog.jp/najiorepo/560930.html 音声ファイル・下よりメモしました)

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【目次】説法めも

*1: 

パーリ語仏教用語集 『AKUSALA−CETASKA:不善心所』 より

「lobha(ローバ:貪)⇒六処(眼耳鼻舌身意)によって得られた情報を受け入れるはたらき。…

貪(ローバ)は巨大な心所です。生命は自動的に自分が好むことをしようと、欲で行動するからです。食べたいから食べる。見たいから見る。聞きたいから聞く。考えたいから考える。妄想したいから妄想する。寝たいから寝る。それらすべての行為に貪という心所がはたらいています。ですから心所の中で私たちにいちばんなじんでいる不善心所は貪なのです。私たちにとってローバはあまりにも普通の心所であり、普通であるだけにとても捨てにくい不善心所です。「おかげさまで欲のない生活をしております」などと言う人でも、真に不貪の生活をしている人はめったにいません。……」

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