ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

「聖なる」ものの証明~世間と出世間とのボーダーライン~

 3/29(日) スマナサーラ長老『「聖なる」ものの証明~世間と出世間とのボーダーライン~』  

 

この講演内容を@jtba_talkさんツイートからの引用と、自分のメモよりまとめました。

 

「知識と智慧の世界」

知識に"頼って"生きる世界は俗世間です。智慧の世界は聖なる「出世間」の世界です。生きるとは何かに頼ること。俗世間とは生きる世界。知識とは、五感から入るデータを頭で合成して概念を作ること。(その人の勝手の世界)智慧とは、ありのままに真理を発見することです。

(以下、縦線内に記載した引用元はすべて@jtba_talkより)

 

知識とは… ・確かじゃない ・知識によって「見解」を作る ・いかなる見解にも反対意見アリ ・なのに人は自分の見解に固執する ・知識によって心が汚れる

見解は自分を守る為に作ったはずなのに、批判されたところで「見解を」守るために必死になる。例えば、護身用にピストルを買ったのに、ピストルを守るために身を危険に晒すようなもの。「見解への固執」のために、想像を絶する矛盾が生まれる。

 

智慧とは… ・真理なので見解が成り立たない ・したがって反論はない ・心が清らか ・人格が完成する

 

「バラの花がキレイ!」と思う時に、実際には何が起きているかと調べて、真理を発見するのが智慧の世界です。*1

 

<ポイント>

智慧は光を目指して進む 

知識は闇を目指して進む

知識によって悩み苦しみが生じ増していく。智慧によって悩み苦しみが減り消えてゆく。

知識は暗闇を目指し、智慧は光を目指す。

俗世間も仏教も学ぶことを推薦するが、両者は方向性が違います。俗世間は欲・怒り・慢などの感情が増える学び方をします。

 

ものに執着するため、権力を握るため、物質または存在に執着するために知識を獲得します。

宗教も"存在への執着"から生まれたややこしい知識体系。仏教の学ぶ世界では、一切の執着を捨てます。存在に対する執着をかならず捨てます。宗教もいらなくなります。

 

見解から善悪が成り立つ。俗世間は善悪から離れることができない。

身を守るために、また怯えによって、悪から苦労して離れることもあるが、機会があれば罪を犯します。

 

 

「聖者の学ぶ世界」

俗世間は悪と感情に溺れています。苦しみを無くす目的で、苦しみを増やすのが俗世間のやりかたです。俗世間の学問と仏弟子たちの学問は違います。(中部1経より解説。……難しいので実況はほとんど略します。)

 

中部経典 第一 根本法門経 Mūlapariyāyasutta

assutavā puthujjano ariyānaṃ adassāvī ariyadhammassa akovido  ariyadhamme avinīto, sappurisānaṃ adassāvī sappurisadhammassa akovido sappurisadhamme avinīto *2

(ちょっと自分のメモの正確さが怪しいですが、スマナサーラ長老訳を下記に。正しくは後日発売予定の講演DVDを請要チェック)

 

「学んだことがない俗人が聖者と付き合うこともなく、聖者が語る事柄についても学んでいない、聖者が教えることについて訓練していない、したこともない」

「中部第一経はつまり、知識と智慧の差について語られています」

 

「世間は、花(原文では、土 pathaviṃですが想像しやすいように今日は花とします)を見たらすぐに花と決める。決めてから、花について思考する、妄想する。花をもってできることはないか、花は自分のものだ、あなたのものだ。そして花を喜んで執着が生まれる」

「つまり、概念から執着が生まれる過程を言っています。

なぜか? 教育を受けていないからです。」

「聖者は、花は花だとよく知っていて、それから妄想しない。わたしの花と思わない。感動しない。

なぜか? 欲がなくなったからです」

 

(_ _).。o○ ありのままに観る学びをする人は、識る過程で心を汚さない。

 

俗世間は学ぶことで心を汚す。仏弟子は心を汚さないために学ぶ。聖なる世界の学びも"知識"からスタートします。信仰は要りません。知識を得る時も「理解能力、自らの判断」が必要です。先入観から離れて理解する訓練をするのです。

 

例として「手打ちそばを習う」。

凡人… ・おいしい ・店でもやろうか ・誰にも負けない ⇒学んで心を汚す

聖者… ・このように練る、切る、茹でると研究 ・単に作れるようになるだけ 

⇒学んでも心が汚れない

 

<ポイント>

宗教や信仰の枠にあわせて理解する、文化にあわせて理解する、歴史に照らして理解する、というのも先入観です。物質、世間の思考などを仏教的に学んでもよいが、「生きるとは何か?」と学んだほうが、智慧が直ちに現れます。*3

 

「心の汚れを気にする」

心を汚さない、ある汚れも無くす、という目的で聖者の世界を学ぶのです。日常の生き方でも、心が貪瞋痴で汚れないように生き方を調整する。わかりやすく言えば、それが道徳・戒律を守ることです。道徳が無ければ智慧は現れません。「道徳ある人には智慧がある。智慧ある人には道徳がある。」

例として、「歯磨き」を心が汚れないようにやるには?

  • ちゃんと歯磨きをして一生歯を守らなきゃ、きれいな白い歯でカッコつけようとか思ったら心が汚れる
  • そうではなくて、歯は汚れるんだ。磨いても汚れるんだ。汚れたらすごく不浄で、わたしにも気持ち悪いんだ。これは汚れを落として清潔に保たなくてはいけない、終わらない作業だ、という感じでありのままに観察しながら歯を磨く。
  • ちょっと無常のほうに、不浄感のほうに心が持っていけば、心はきれいに保てる

 

(_ _).。o○ 貪瞋痴を減らすような生き方が修行です。

 

「ボーダーライン」

ボーダーラインはなんでしょうか?私見は私見として、反対の意見もあると知る。意見に執着しないで、いつでも新たなデータが入り次第、意見を調整する。「一切は無常」とは真理だ、と理解し納得する。無常は「地球は丸い」よりも確かな真理ですよ。

 

自分が見解からどうしても離れられないというならば、「一切は無常である」を見解にして生きてみることです。因果法則を理解する。それで落ち着きます。

 「聖者の世界・出世間」

自我・エゴの錯覚が消えたところで、俗世間の次元を超えているのです。真理を発見して、心から一切の疑が無くなって、曖昧優柔不断などが消え、落ち着く。この心の改革が起きた時点で、仏弟子・聖者です。(預流果)それまではボーダーラインを生きるのです。

 

さらに怒りと欲が減ったところで、一来果。怒りと欲が完全に無くなったら不還果。自分という実感すら成り立たないと発見し、無明を完全に砕くと阿羅漢果です。

「聖なる世界の内容」

「ブッダの教えにしか観られない、必ず離欲…涅槃に導く10の事柄があります。正見〜正定(八正道の8項目)、正慧、正解脱です。」これらの言葉の意味は、一般論ではなく、経典の定義どおりに理解しなくてはいけないのです。これらの項目は聖なる道(ariyamagga)とも言います。

「此岸と彼岸」

十悪で生きているならば此岸のひと。十悪をやめて十善を目指す人はボーダーライン。正見が現れたら彼岸の人です。正見とは?「有(在る)・無という二つに世間は嵌められています。この世の生起をありのままに、正しく智慧で観るならば、この世に対する"無"という極端がなくなる。」

 

「智慧 sammaditthi はなに?」

「無い」と「有る」の極端がなくなること。

「この世を……"有(在る)"という極端がなくなる。この世は殆ど、見解に執着して見解を追い求めているのです。あらゆる見解に執着してはならない。これが"我"であると思ってはならない。(ウパニシャッド批判でしょうね。)」

 

「生起するのも滅するのも"苦"であると自分で体験して発見することで、疑を乗り越えた揺るぎない智慧が現れる。これが『正見』です。」

 

「集約」

 

 (_ _).。o○(心清らかにする)真理を自ら発見する人が「聖」です。

 

 心が実体論で働く間は俗世間です。

現象は、因縁によって成り立つ。

 

広告を非表示にする