ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

「真っ赤なウソ」養老孟司 大正大学出版会【ブックレビュー】

「真っ赤なウソ」養老孟司 大正大学出版会2004年 を読みました。 

真っ赤なウソ

真っ赤なウソ

 

養老孟司が語る、世の中のこと、マスメディアのこと、人間のこと、死ぬこと、生きること、仏教と宗教のこと……。
軽妙かつユーモアたっぷりに、世の中のウソのカラクリと効用を、鋭く暴く。
「ウソ」を凝縮した先にある「リアリティー」とは何か。「変わらない私」とはどういうことなのか。 (Amazonの内容紹介より)

 

本文中の、「事実はひとつ」か「真相はやぶの中」か(P75)から引用します。

 芥川龍之介の「藪の中」で、三人の強盗の陳述が全部食い違う。だから、「真相はやぶの中」。 

「人間が何かを知ろうとするときに、本当のことは分からないんじゃないか」という疑いです。(p77)

 

「本当のことはたった一つだったんじゃないの」と思っている人は多いですね。科学をやっていれば必ずそう思います。事実はこうであったと。じゃあ、その事実はこうであったっていうことを、徹底的に突き詰めていくとどうなるんでしょうか。

 

歴史上の問題でも、事件でも、それぞれの人が後になって自分の都合でいろいろなことを言い出す。だから、常に真相はやぶの中なんです。(p79)

 

このあと著者は、「科学的言明には必ず根拠が付いている」とつなげていって、科学者が「月までの距離は38万キロである」と割り出した話を紹介している。

 

「歴史的事件の真相」は「やぶの中」であるが、「月までの距離38万キロ」は根拠がある、ということをここで言っています。この二つを対比させてから、「宗教体験は誰もが追体験できるものではない」(p85)と続くんですが……。

 

この対比、実はおかしいんです。なぜでしょうか?

 

答えは、「時間」の混乱です。

「歴史的事件」は過去のことですが、「月までの距離」は現在のことです。過去未来は妄想であるので、妄想と現実をいくら比較しても意味がありません。

 

つまり、「先週、あの会議で起こった出来事」について三者三様の説明があるのは当然です。でも、あの会議室の場所について参加者に尋ねれば、みな同じことを言うでしょう。たとえば「二階の第二会議室」と。もし誰かが「いや三階だ」と言うのなら、実際に会議室を見に行けばはっきりします。

 

そして「宗教体験は誰もが追体験できるものではない」という項目では、次のように書かれています。

「(宗教体験の)その根拠にせよ、言明にせよ、それがどのくらい明瞭であるか。つまり他人によって追体験が可能であるかどうかによって、科学であるか科学でないかが区別される。

改めて定義すれば、科学とは根拠と言明が対になったものであって、いつでも対のものとして理解される。わたしはそう考えています」(p87)

 

「さらに科学では、『叙述している人は消える』という特徴があります。それは誰が客観的に言ってもそうなるだろうということです。

だけど、それに対して私は、『そこで本人は消せないでしょう』と言っています。どうしたって、言っている人に意識を消すことはできません。それを聞いている人、読んでいる人の意識を消すことはできません。それは言葉で言っている以上、意識の世界からは決して出ていないわけです。意識の世界を消すことはできないわけです」(p87)

 

数年前、わたしは知人から、「ブッダが真理を語っているとなぜあなたにわかるのか? その自分の判断が間違っていないとどうして言い切れるのか?」と聞かれて、「う~ん……」となってしまったのですが、ようやく解決されました。

 

スマナサーラ長老の説法でよく出てくる喩えで、「地球は丸い」という真理があります。普通に暮らしている分には丸いとは感じていません。でも、わたしにちは丸いと知っている。水平線から丸いことを推測したり、宇宙からの地球の写真をみて、「やっぱり丸いなぁ」と何度も確認しているんですね。

 

そういうふうになんでも、少々特別なことを理解するには、繰り返し、繰り返し、追体験が必要なのでしょう。ヴィパッサナー瞑想で現在を「みる」技術も伴わなければならないんですね。

そうすると上で引用した「(本人の)意識の世界を消すことはできない」もおのずと解決されそうです。

 

だから、「ブッダが真理を語っているとなぜ言えるのか?」との問いには、「地球が丸いと肉眼で見たわけではないけど、丸くないと言うのはばかげているでしょう」と答えられます。

 

「『ブッダの教えは間違っていない』とわたしが言うのは、『夕飯のメニューをエビグラタンに決めたわたしの判断は間違っていない』というのと同レベルではない」とも、知人には言い添えたいと思います。(機会があったら)

 

 

ところで同書で、慈悲について感じたところがあったのでそれも触れておきます。

 

私は昭和30年代の終わりに大学を卒業して以来10年かそこら、虫を全然捕らなかったんです。……実験に使うためにネズミを飼っていましたが、そのうち殺すのが嫌になった。

それから10年ぐらいして、また虫を捕り始めたんですよ。虫がこんなにめちゃめちゃにいなくなるんだったら、俺がとった方がまだましだよ、とか思って。(p134)

 

「今はもう徹底的にジェノサイドやってますよ。だけど、いまはそういう世界ですからね」(p134)

 

「人体をナイフ一本で殺して、平気でいるっていうのは、どういうことか? それに外を見りゃ分かるんですよ。どんだけ人は木を切っていますか? 邪魔だからって切っているんですよ」(p135)

 

 

「慈悲」というのはすごくおもしろいものですね。

言われてみれば当たり前なのに、自分だけの力ではなかなか発見できない。

 

今でこそわたしたちは、正しく求めれば、慈悲と簡単に対面することができるけれど、昭和30~40年ころは日本には本格的に上陸していなかったのでしょう。もしそうでなければ、養老先生のような立派な方が慈悲の存在に気付かないはずがないと思います。

また、どれほど賢い人間にも、自力で慈悲を見つけることは難しいものなんですね。

時として、壁に気づくには超人的な助けが要ります。

 

昭和30年ころに養老先生がブッダの慈悲の教えをチラッとでも聞いていたら……

それこそ「もしも」話ですが、先生ならすべての壁を超えて行ったかもしれないのに。

 

 

 

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<追記>

最近なんとなく気づいてきたんですが(遅いですが)、多くの方が日本固有の教えとブッダの教えのはざまであまり楽しいとは言えない状況にあるようですね。

 

そこで仏教フレッシュマンの方は、単位を取る順番を間違えないようにしたほうがよさそうですよ。

順番は、 1.テーラワーダ仏教(初期・原始仏教)⇒ 2.大乗仏教

両方の単位を取得したら、あとは自由にやりたい方法を選べばいいと思います。

 

例としてわたしの場合は、

家の冠婚葬祭は大乗仏教⇒ 学校がキリスト教系でそれを学び⇒ タイで自覚なくテーラワーダ仏教を体験して*1 ⇒結婚したら夫が、蚊をバケツで捕まえて外へ逃がす人だった(当時わたしは理解不能だった)⇒ スマナサーラ長老の説法で言語化されたテーラワーダ仏教を知って、今までの、周囲の行動の謎が解けてスッキリする。

 

今の日本では、宗教・哲学の選択メニューが豊富です。どれを手に取っても自由ですが、順番だけは、上記に挙げたとおり気を付けたほうが安全です。

わたしは自ら勉強し始めたのがテーラワーダ仏教でした。

家の伝統宗教や学校の宗教からも、あまり大きな影響を受けていなかったようです。 

*1:

thierrybuddhist.hatenablog.com

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