(無我って明るい!【無常・無我】中編 から続きます)
お釈迦様の時代でも、ある人がお釈迦様に質問したんです。
「お釈迦様。死後も不滅になる我はありますか?」
お釈迦様は答えないんです。
「死後不滅になる自我はないんですか?」
答えない。
「どちらですか? 我が有るなら有る、無いなら無いと言ってください」
そしたらお釈迦様が、
「我は無いんだよ」
と答えたんです。
そうしたら、質問した人は落ち込んで失神してしまった。
「愚か者たちが、知識も能力もない人が、そういう質問をするからです。そういう人には説明しても分からないんだ」とお釈迦様は質問者をいさめてから、その人じゃなくて(笑)、比丘たちに説法しました。
仏教はいくら真理を語っても、消化できない人は現われるんですよ。そういう人には親切になんとか助けてあげるしかないんです。
まあまあ、気にすることじゃない、とか言って。
素粒子の話も出ましたが、(詳しい説明は)ここではちょっと控えたいと思います。
無常と言うのは高度な教えで、勉強すればするほどびっくりします。
素粒子の話が出てくるのは物質の話で、物質と心がお互い繋がって行動するんですね。それを説明するために素粒子を持ってくるんです。
現代素粒子は私にはわかりませんが、ブッダの素粒子は四つ、地水火風です。
どうして四つにしたかと言うと、名色(めいしき) *1と関係あるんです。
地と言うのはすべての質量、硬さをつかさどるエネルギー。硬さと言うのはわれわれ認識できる。硬いというエネルギーが地です。
水(すい)は繋がっている、引き寄せるエネルギー。どうも物と物は引き寄せ合うんですね。それでわれわれには物と見えちゃうんですね。触ってこれはバラバラにならない。引き寄せているのを認識できます。
火と言うのは熱ですね。これは温度として理解しても良いし。何にでも温度があるんですよ。
これ、なんで温度は素粒子にしたのかと言うと、温度のレベルで物の状況が変わるんです。
地球の温度がどんどん上がるとどうなりますか? 太陽の温度になったら? 別なものになっちゃう。やがて物質として消える。これは温度のせい。
変化を作るのは温度、火、熱です。これが三番目の素粒子。
風。物事引き寄せちゃうとどうなる? お互いに引いて、引いて、消えちゃうでしょう。いっぺんに引いちゃうでしょう。一点と言うのは存在しないんですよ。点というのは頭の概念だけで、実際に存在しないんです。
こちらに点一つ書きます。A点とB点。つなげましょうと言っても、A点は存在しないんです。我々は点と言うが面積があるんですよ。だから物事を引き寄せるということは、点になるんです。そうすると物事が存在しないことになっちゃうんです。
でも、点にならないんですね。点は存在しない。
ということは、引き寄せても、引き離すエネルギーもあるんです。それが風です。
それでわれわれは認識できるんです。
引き離すエネルギーと引き寄せるエネルギーがバランスを取ったところで、大きさなんです。
風船はどれくらい大きいかということは、バランスで決まってきます。
圧力が小さいところで大きい風船を作ってここに持ってきたら、縮みます。
物事は全部そういうことです。
お釈迦様は地水火風ということで説明しています。
それはあまりややこしく考えずに、認識できるんだと、知ることができるんだということにします。
それにもう四つを加えています。それは生命にかかわること。色です。色は目で認識できる。
地水火風で目によって認識できるエネルギーが現れる。それを色といいます。*2
音、耳で認識できる。音っていうのはあるんですかね? 面白いんですよ。ある振動は耳で認識します。
香りですね。あるんですかね? わたしたちは全然分からなくても犬には分かったり。認識能力によっていろいろ。地水火風が集まるとそういう特色も出てくる。
四番目は、滋養(味)。栄養ですね。これもおかしい話で、われわれが食べているものは科学的に同じでしょう。しかし体の変化はそれぞれ変わるんですね。だからこの、地水火風がほかの地水火風に変化するんですね。
キャベツを食べて、他の地水火風に変化してもらう。それが滋養です。
それで素粒子が四つになります。仏教は生命学ですから、生命にかかわるものはそれで終わり。
すべての科学もそれで本当は終わりなんです。
素粒子は、波動で振動でエネルギーです。自我がないと言うだけでなく、物もない、ということになっちゃうんです。振動のみ、と。
難しい話になりましたけど、申し訳ございません。
その程度の答えでよろしいですか?
質問者「赤ちゃんを産んだ時に、妊婦が消滅して経産婦が生まれると。そうすると、妊婦が経産婦になったんではなくて、変化ではなくて、妊婦が滅して経産婦が生じるんですか?」
そうです。滅して生じます。
「そうすると、わたしが妊婦になって経産婦に変わったと考えるんじゃなくて、わたしが一旦消滅して、現在経産婦になった、というのは、記憶がなければそういうことになると思うんですが……」
記憶と言語の使い方なんですね。それだけのことで、客観的にみれば消滅なんです。
「たしかに、酸素と水素が結合して水になったと。その両方の分子が消滅して水になったと、そういうことになるんですね」
そうそう。もう酸素もないし、水素もないんですね。
「われわれの常識ではついていけないところがあるんですが……」
常識からみるとその通りです。あえてわれわれは、そういうことを堂々と言います。
「どういうふうに考えて行けば?」
どういうふうに考えても、一般の考える範囲を超えています。
だから実践になるんです。
実践になると人間は、言葉の束縛から消えちゃうんですよ。言葉の束縛から抜けたところで経験していくんです。
そこはもう、瞑想実践が必要なんですね。
(終わり)
(関西定例瞑想会 2008.02.22
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/800578.html 音声ファイル・上からメモしました)
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