(何で遺伝子は分離するんですか?【脳と心の関係】中編から続きます)
だから心は何ぞやと言えば、あなたにわかりやすい言葉にします。
「生きること」なんです。
生きる、とは心なんです。思考ではないんです。思考は生きることの一部なんです。呼吸することも、生きることの一部なんです。
見る、聞く、あれこれ、ぜんぶ部品であって、基本的に見れば「続けたい」なんです。それが「生きる」なんです。
「見る」で、終わらないでしょう? 見「続けたい」でしょ? 聞き「続けたい」でしょ?
呼吸「し続けたい」でしょう。
この「し続けたい」が問題なんです。それをお釈迦様が発見する。渇愛であると。
脳の中で理解する渇愛じゃなくて、もっと深いところまで行かなければ。
だから実践方法まであるんです、こちらには。
われわれは「し続けたい」ということは評価しないんです。それ自体がおかしいんだと。でもやめられないんです。「し続けている」んだから、苦しみも続くんですね。
全体的に生きるということが幸福ならば問題はないんだけど、おもしろいことに、生きることが幸福だったら生きることが成り立たなくなっちゃうんです。だって「し続ける」ことが何もなくなっちゃいますから。
「し続ける」のは、物足りないからでしょ? それを「苦」というんです。
だからお釈迦様は「幸福はないのか?」と探したら、それに達して、「し続ける」ことが無くなっちゃったんです。それを言葉では涅槃というんです。
ずーっと「し続けたい」ということがあるんです。それは脳で説明できません。細胞一個でもやってますからね、「し続ける」ということを。
だって細胞の組織を培養液で増やしたりもするでしょ。
日本ではやけどの治療がかなり進んでいるでしょう。皮膚を取って育てるんですね。育ててから体につけてあげる。皮膚から取った組織が「し続けたい」気持ちがなかったらできないでしょう。
わたしが分からないのはね、体から取り出した皮膚がね、命があるかないかわたしには分からないけれど、ファンクションは分かりますね。死んじゃったら終わりですからね。成長しません、組織が。
だから死んでいるか生きているかを、われわれは「し続けたい」があるかどうかでチェックしているんです。
環境が悪くて、種の芽が出ない。でも芽が出たいという、「このままではダメだ」という不安なものがあるんです。だから水をあげた途端、芽が出ます。
昔どこかから蓮の種を見つけて、これが二千年前くらいの古い物でした。それを育てたら芽が出ました。日本の昔の時代のね。
ということは蓮の種が二千年もよう待って頑張ったこと。「し続けたい」という気持ちだけ持って。
花も咲きました。現代の蓮の花と違って素朴な花でしたけど。蓮の花も進化していますから。
輪廻転生というのはこの「し続けたい」という問題なんです。
終わり
(関西月例冥想会 2015.4.4
https://www.youtube.com/watch?v=uaX9B4_mWZw よりメモしました)
ミラベル(という名前のプラムの仲間)
4年前に食べたときの種を取っておいて、2年前に植えて、先日になって芽が出ました。
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