質問
「釈迦尊が幸福になる道を説きました。
慈悲の瞑想で『私は幸せでありますように』と唱えますが、わたしは別段、自分が幸福になりたいという気持ちは希薄で、『なぜ生きているのか、どういう道を進むべきか?』と自問しながら行く道を探しています。
お釈迦様は、幸福というものを、幸せというものを、どういうものだと説いているのでしょうか?」
回答(スマナサーラ長老)
お釈迦様は、「ブッダはどのように知っているのか?」と聞かれても答えません。
「あなたが何を知りたいのか聞いてください。ブッダが何を知っているのかと聞くなよ」と。
なぜならブッダが知っているものは、質問する側の許容量が超えているからです。
今の質問では、「自分が幸福になりたい気持ちが希薄である」と、言っている割に、自分の幸福を探し求めているんじゃないんですかね?
「どう生きればいいか?」は、あなたにとって(その生き方が)幸福でしょう。
各個人に、各幸福バージョンがあるんです。だからご自分が、自分の幸福バージョンを探しているでしょ? この探し求めるものが幸福なんです。幸福を探し求めているんです。
今の瞬間に対して何の不満もなければ探さないんです。
だからご自分が「生きるってどういうことだ、これは?」とか、「生きるならどんなふうに生きればいいでしょうか?」が自分にとって問題になっていて、そちらを探しているんです。
自分の幸福バージョンがほかの人の幸福バージョンに似ていないかもしれません。結局は生命は幸福を探しているんです。
幸福とは何ぞや? と聞いたら、みんなそれぞれ自分の説明をする。
若いお母さんに聞いたら「子供がすくすく育つことである」と。子供に聞けば「よく勉強できれば」と。そうやってそれぞれ個人が自分の幸福バージョンを持っているだけの話で、「これで真の幸福が成り立っているか?」は別の話です。
ブッダが、お釈迦様がおっしゃっているのは「なんであんた幸福を探しているんでしょうか? 不満だからでしょう。苦っていうのは不満ということなんですね」と。
だから、「わたしにとっては一千万円入れば幸福だ」と思っている人は不満を持っているんですよ。金がないことに。
子供が「成績が上がれば幸福だ」という子は、成績が悪いことに不満を持っているんです。
「どう生きればいいか? 生きるとはどういうことか?」と考えている人は、「生きることはようわからない。だから知りたいんだ」と(知らないことに)不満を持っている。
結局は普遍的な論理で言えば不満がありまして、具体的な内容はどうでもいいんです。
金に不満があるか、健康に不満があるか、早く死ぬことに不満があるか、そういう具体的な話ではなくて、基本的には「不満」というファンクションがあって、そこは人の認識能力によって、ある人は金さえあれば幸福と、ある人は美人と結婚できれば幸せだと、そんなのは無常で成り立たない。
「美人と結婚できれば幸福だ」と思うのは結婚していない若い男でしょう。その人も結婚できてもできなくても年取るんだから、そうすると、独身で年取ったら、「美人と結婚できれば幸せ」という幸福項目は置いておいて、別の幸せを探し求めているんですね。
死ぬまで探しちゃうんです。
もし美人と結婚できても、別の不満が持ち上がって、また探すんですね。
だから金がない人に金が入っても、完璧幸福かというとそうじゃないんです。新たな不満が出てくる。お釈迦様もそれをおっしゃっているんです。
生命は幸福を探し求めている。それは一貫して真理なんです。一個の細胞の生命でも、すごい不安があって、生き続けているんです。
だから「わたしは幸せでありますように」という一文は、わたしにはあまり関係ないんだ、ということにはならないんです。
いわゆる精神的な安らぎを求めているんです。それは智慧が現れない限りは……。智慧は最終的なステージまでは現れないんです。
お釈迦様は、
「今の瞬間を勉強してみなさい。今の瞬間はどういうことか? 生きているのは過去じゃないし将来じゃないし、今生きているんだから。
今の瞬間を勉強してみれば、すべて無常で成り立たないもので、組み立てられたもので、『ま、なんもない』ということを発見するんです。そうすると今の瞬間で不安が消えるんです。それで終わりです」
今の瞬間に対する不安が消えたら、不安がない人間になります。
「~し続けたい」ということも消えちゃいます。そのシステムを持っているんだからそのシステムが機械的に「し続け」ちゃいますけど、それも終わります。
ということになります。
(関西月例冥想会 2015.4.4
https://www.youtube.com/watch?v=uaX9B4_mWZw 1:03:00~1:13:00までメモしました)
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