ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

初期仏教月例講演会 『するべきことがわからない? ~それぞれの役割と責任~』

2015.4.25(土) スマナサーラ長老 初期仏教月例講演会

『するべきことがわからない? ~それぞれの役割と責任~』なかのZERO小ホール

期間限定公開動画

 http://www.ustream.tv/recorded/61516052

 

この講演内容を、わたしが聞いた範囲で、梛(@jtba_talk)/2015年04月25日 - Twilogさんのツイートと自分のメモをもとに ざっくりとまとめました。

 文中の引用部(縦線部分)はすべて梛(@jtba_talk)さんツイートより引用しました。

この記事は、ブログ上で読みやすくするために、ここで一度区切ります。

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「心は乱れる」

簡単に気持ちが変わることをcapalam(チャパラン)と言います。

人間の心はすぐ変わるのが普通のこと。揺れる、揺れる、キリがなく揺れる。目に見えたものに揺れる、聞こえるものに揺れる、妄想して揺れる。

心は守りがたい。堕落することを制御しがたい。

 

「決断力がないのは普通」

優柔不断、決断できない、分からない、これは人の心の普通の状態

こころはそういうものです。気にしないでください。

それをお釈迦様が分かった上でのアドバイスなので、よく聞いた方がいい。人間の悩みを知り尽くした上で強くなる道を教えている。世間とはちょっと違う。

 

すぐ判断して行動する人もいるが、それも問題です。

人間は普通、目の前のニンジンに飛びつくか、先が読めないか、無知でその能力がないか、いずれかです。

 

世の中では無責任に、優柔不断はよくない、しっかり決断しなさいとか、迷わずに進め、などと言っていますが、人の心が不安定で変わり続けるのは、あたりまえのことです。それを認めることです。

 

「意欲がないことは問題のはじまり」

やる気は特定のエネルギー、これがなくなると何もできなくなる。

意欲は「欲」ではない。意欲=やる気。

生きることは心の働きです。

生きる上で様々な行為・行動をしなくてはならない。

行動を引き起こすために心の中に十分なポテンシャルが起こるのです。

このポテンシャルがやる気・意欲です。呼吸にも意欲が働いている。やりたいけどやれないときはそのエネルギーを自覚する。呼吸に意欲を自覚しないのはちゃんとやっているから。

 

子供の中にやる気だけ溜まっている。親が「ダメ」といってもやる気は消えないで残る。わたしの場合はやる気に針の穴を開ける。「やるなら見えないところでやって、やってしまうとヤバいですよ」という言い方。「やめなさい、みっともないから」とは言わない。

 

呼吸に意欲が要らないというのは勘違い。やったからエネルギーは発散しているから、やる気に気づかないだけ。ちょっと呼吸を止めたらわかる。後回しにできない意欲。呼吸したら発散する。そして新たに呼吸したいという意欲が生まれる。

 

たとえば、手を挙げたいという思考だけで手は上がらない。挙げたいという意欲が起きたら手が上がる。

朝、起きなきゃヤバいという気持ちが生まれたら起きられる。

 

「皆生きているから『意欲』があるのです」

生きていることは相当意欲がないと成り立たない

 ・自然に起こるこのエネルギーだけでは十分でないのです。

右足を下ろしたら左足をあげたいという意欲が生まれる。

 

意欲が現れて行動しないとかなりイライラします。のどが渇いたけど自動販売機がなかなか見つからないとイライラします。

意欲が起きたら次に適した行動をしなくてはいけない。これが生きるというシステムです。

このエネルギーだけでは十分ではない、と言う意味は、「勉強しなくちゃ」という意欲にもうちょっとチャージしないと行動できません。AED(心臓ショック)の機械も、開けてすぐには使えない。スイッチ入れたらチャージが必要。十分な電圧電流が必要。

行動に移すまでチャージが必要です。

 

われわれがご飯食べたい、というときはチャージ必要なし。のどが渇いた時も、意欲のチャージは必要なし。「勉強しなさい、早く寝なさい」は、すぐやってくれない。チャージが必要。

言わなくてもやること、言ってもなかなかやらないことの違いは、意欲のチャージの問題。

しかし、この意欲エネルギーだけでは、生きるのに十分じゃない。

 

“子供だけでなく、大人も同じです。意欲をチャージしなければできないことと、何もしなくてもできることがある。時には、今無い意欲を起こさなくてはならない。時には、今ある意欲を強化しなくてはいけない。”

 

“世の中で悪いことはアカンと言ってる割に悪いことをやってしまう。悪いことはいけない、というのがアイデアに留まって、行動するほどチャージされていない。

時には、今ある(悪い)意欲を制御しないといけない。でも、お説教は効き目ありません。人を侮辱したくなったら、その意欲をチェックする“

 

わたしもある人に怒鳴って怒って躾をした方がいいかと二日間悩みました。

でもやめた。データを調べた結果。

わたしのきつい言葉に持ちこたえる精神力があるのか。本人が良かれと妄想してやったことだし。

わたしたちにそういうふうな教育が必要なんです。

「怒鳴ってはならん、怒鳴ってはならん」と呪文のように唱えるだけでは意欲は消えない。ストレスがたまる。

酒を戒律だから飲まないとしても、飲みたいという意欲は消えない。ストレスがたまる。

“怒鳴ってはいかん、と繰り返しても、その意欲が消えなかったらストレスが溜まる。意欲をチェックして、その意欲の風船に針をさせば、気分爽快に止められます。”

 

「根本的な意欲」

根本的な意欲は単純に言えば、生きていきたいという「存在欲」と死にたくはないという「恐怖」です。

この二つの衝動の強弱によって、生命の生き方が変わるのです。

存在欲が激しい人間がほかの生命の生きる権利さえも奪っているのです。

そして生きる環境まで破壊します。

 

チーターがガゼルを追う話。ずっと逃げ続けていたガゼルに追いついたとき、チーターはガゼルの背中に、爪も出さない前足で軽くただタッチした。その瞬間、ガゼルは筋肉が硬直して止まった。ガゼルの生きる意欲が消えた。恐怖も何もなくなった目をしていた。そこでチーターが、ガゼルの喉元に噛みついた。見ていて何とも言えない。生きるとは本当に残酷なことだ。

ガゼルと違って、人間だけは諦めませんね。どんどん生きる意欲をチャージします。

  

“私たちは「呼吸したい」とわざ思ったことはないかも知れませんが、もともと強烈にあるのです。人間は生存欲と恐怖感をわざわざ強化しています。

 

野生動物は、捕食者に捕まるとスッと生存欲が消えてしまう。人間だけは違う。諦めません。わざわざと生きる衝動をチャージするんです。”

 

「衝動の暴走」

存在欲が暴走しているので、財産を獲得することに必死です。

いくらあってももっと欲しいという気持ちがあります。

財産を守るために他を破壊することもします。

名誉欲、権力欲、支配欲なども存在欲の化身です。

生きるためにそこまで必要か考えられないのです。

 

“私たちは、生存欲・存在欲の暴走ということを学んだ方がいいのです。存在欲が暴走している人類は、財産を獲得するために必死で、地球まで破壊してしまう。

一般的な人間の文化というのは「金儲け」なのです。「いくらでもいいから、金が欲しい!」という文化なのです。”

 

“(スリランカ前政権の閣僚による想像を絶する汚職と不正蓄財について言及)

 

……貧乏な田舎の男でも、政治家になれば儲かるとわかった途端に心のブレーキが壊れるのです。

 

財産を得るために他者を破壊することもします。名誉欲、権力欲、支配欲なども存在欲・生存欲の化身です。”

 

現代社会は意欲の暴走社会」

恐怖感が暴走すると、戦争、テロ行為などにまで進みます。

生きていきたいために行うこれらの行為によって、肝心な生きることさえもできなくなるのだと理解しないのです。

“私は生きていきたい、という存在欲があらゆる形で暴走しているのです。「生きるためにそこまで必要か?」と考えられないのです。仏教の与える解毒剤は簡単です。「それが無いと生きていられない?」と問うことです。

恐怖感が暴走するとテロや戦争にまで至ります。”

 

「火を温める必要はない」

根本的な衝動はすべての生命に有るので、あえて育てる・成長させる必要はありません。

「生きていきたい」とか「敵を倒したい」というのは忘れなさい。

もし暴走したならばそれを制御する必要はあります。

いろんなことに手を出してきりがないというのは、やめなさい。そうしなくてもちゃんと動いているんです。

雪山を滑っていくとしましょう。さらに頑張って走ってスピードあげる? 死にますよ。滑っているんだから、何とか自分で止める必要がある。木の枝につかまったり、横になって減速したり、スピードを制御する必要があります。

 

ここは世間が間違っているところです。

感情が暴走している人なら、「やるべきことが分からない」とは言わないのです。

 

“存在欲と恐怖感が暴走すると、生きていきたい/死にたくない という根本的な意欲も満たせずに自己破壊してしまいます。そうなるのは、意欲の房総、衝動の暴走です。

 自害行為をするのも、意欲の暴走です。

 生きていきたいという衝動はすべての生命にあるもで、あえて育てる必要はありません。”

“「生きていきたい」とわざわざ思わなくても、あなたは生きているのです。

 根本的な意欲が暴走しているならば、制御しなくてはいけないのです。”

 

仏教では、無明、渇愛、貪瞋痴、煩悩、束縛などの用語で生命の根本的な存在欲について明確に語られています。

しかし、存在欲を掻き立てるのではなく、根絶することを推薦しているのです。

“ここは世間が間違っているところ。

 意欲が暴走しているなら、誰も「私は何をしたらいいか分からない……」と悩んでいないのです。”

 

期待する意欲よりもけた違いの意欲と理性が必要です。

 「するべきことがわからない」という問題がなぜ起こるのか?

「感情が混乱している」んです。

“存在欲をかきたてるのではなく、根絶する道を説くのです。そのためには、桁違いの意欲が必要です。

感情の混乱:自分にあるのが欲なのか怒りなのか自分で分からない。経済的に豊かな社会で生きているので、明日の食に困らない。怠けても生きていける。”

 

自分以外の世界・社会が広すぎるので、やりたいことも、できると思えるものも複数あります。

あれもやりたい、これもやりたい、選択肢がたくさん出て来て、見栄が出て欲が出てくる。

 (日本と違って食べるものにも困るなど)存在欲そのものに問題がある場合は、意欲がいくらでもあります。貧困国、戦乱下など。

(日本のような)生きるということに気づかない環境で現われるのは、無知です。鈍感になって「生きることが分からない」となる。

 

教育は「金儲け」という単純な目的なので、この世で成功することだけが生きる目的であると思っているのです。

情けない、能力のない、やる気のない人間になる。

 

生きることとは何か、どのように生きるべきか、人間が持つべき優れた生きる目的は何なのかを教えてくれません。

成績をあげなさい、それではいい大学へ入れませんよ、それでおわり。

 

道徳倫理は命に欠かせない程度のものさえ教えてくれません。

 

“生きるために必死な社会では、あれこれ悩む暇がない。

24時間コンビニが開いていて、いつでもご飯が食べられる社会では、馬鹿な人、無知な人、鈍感な人が生まれる。どうすればいいか分からない、と悩むのです。”

 

「意欲の揺らぎ」

心が揺らぐので意欲も揺らぎます。

生き延びるために必死で戦わなければいけない環境では、意欲が弱くなることは少ない。

戦わなくても生きられる環境では、意欲がたびたび弱くなります。

心は曲者なので、その状態になれてしまいます。

 

“意欲の揺らぎ……こころが揺らぐので意欲も揺らぎます。生き延びるために必死で戦わなければいけない環境では、意欲が弱くなることはない。

戦わなくても生きられる環境では、意欲が度々弱くなります。日本のような安全な社会に顕著な問題です。アメリカだったら、気を抜いたらすぐ殺されますから。”

 

「するべきことが分からないではなく、やりたくはない」

禅の老師に若い弟子が「先生、何をしたらいいでしょうか?」と聞く。老師は「きみは、やる気がない。やる気がある人は、やるべきことは何かと人に聞かない」

 “心はクセモノなので、意欲が無い状態に慣れてしまいます。「分からない」のではなく、「やりたくない」のです。やる気が無いとです。

「するべきことが分からない」とは「なにもやりたくない」という気持ちの現れです。やりたいという気持ち(意欲)があれば、やって欲しくないこともやってしまう。”

 

やりたいという気持ち(意欲)があれば、やってほしくないものでもやってしまうのです。

お母さんが子供の行動を「ダメ!」と抑えているから、抑えられてたまった意欲が、あとで「なんでもいいからやっちゃえ!」として表出する。

 

意欲がある人は、次に「何をしようか」探すのです。

 “意欲のある人は、次に「何をしようか」と探す。意欲が無ければ、するべきことが浮かばないのです。

やるべきことが分かるためには、意欲を育てなければいけない。しかし私は先ほど、意欲を育てるなよ、と言ったのです。

仏教では、存在欲と恐怖感とが全く違うものを育てなさいと説くのです。”

(筆者注・ここポイント^^)

 

「世間的意欲」

世間的意欲とは生きるために必要な力です。

人間は仕事をして生計を立てなくてはいけない存在であると理解しましょう。

仕事の定義を書き換えてください。

仕事とは、自分の種(人類)に何かを貢献することです。人間を支えて人間に支えられて生きていく。

 

後半のテーマは、意欲の管理 です。

世間的な意欲……生きるために必要な力です。

人間は仕事をして生計を立てなければならない存在であると理解しましょう。仕事とは、同じ人類に対して、何かをして貢献することです。

赤ちゃんも、お母さん達に心の喜びを与える仕事をしているのです。”

 

“もう一度、仕事について再定義しましょう。

仕事とは、自分の種(人類)に何か貢献することです。

就職してサラリー貰うことが「仕事」ではないのです。”

 

なぜ同じ『種』と言ったのか? 猿さんにバナナをあげても、生きるための見返りはない。

神社仏閣で神様に何かあげても、見返りはありませんよ、種が違うんだから。

”理性的に見れば、神社の神主さんも、神様のお世話しているわけじゃないんです。神様にお願いしてスッキリした気分になりたい人たちのために、あれこれサービスして貢献しているのです。”

人間で生まれたからには、仕事をしたくないとか言ってはならんじゃなくて思ってもならん。会社に入りたくない、田んぼをしたくないというのはいい。仕事の種類の問題だから。しかし仕事をしたくないは思ってもならん。

 

人に迷惑をかけないで生きられるならば、十分です。世界制覇するほどの意欲はいりません。

子供は小さい時は育てる。大学卒業するまでは面倒見る。それから、ハイさようなら。一人で生活しなさいと言わなくてはいけない。

 

わたしから言えば、会社でうまく行かなかったらやめてもいい。しかし、何か仕事をしなさい。

若者が出家の相談に来たら、わたしがする最初の質問「あんた仕事している?」。仕事していない人が出家したいというのは無理です。

収入が足りなくても、何か仕事しなくてはいけない、人間は。

  

やるべきことが分からないという人々は、妄想の世界でなんか世界制覇しようと思っているんですね。

 仕事は、自分に充実感があるように仕事をする。

 

「問題は避けられません」

俗世間的な意欲は貪瞋痴をかき混ぜる、存在欲と恐怖の世界です。

感情は激しく揺らぐものなので、それに伴って意欲も揺らぐのです。

  

“まずはなんでもいいから仕事をして生きること。そこでトラブルが起こったところで、仏教には次のレッスンがあるのです。

感情(貪瞋痴)は激しく揺らぐものなので、それに伴って意欲も揺らぐのです。それが普通であると理解してください。

やる気が消えても気にせずその状態を観察する。”

 

やる気が消えても気にしないで、その状態を観察すると、その理由を発見すると、またやる気が現れます。

家庭の奥さんのケース。料理作りたくない。しかし作らないわけにいかない。みんなの命はわたしの手にかかっている。わたしはみんなを生かしているんだから頑張らなくっちゃ。それで意欲が生まれる。

 

「不安はあります」

貪瞋痴の衝動で生き続けることはできます。

しかし、理性が働かないので、必ずトラブルが起きます。

貪瞋痴だけの世界では、明確にトラブルがあります。

 

欲は奪う力で、怒りは破壊する力です。地は先を考えないで、判断に困らない(やる前に考えない)弱みです。

この三つの力が組むと成功より失敗が多い。

煩悩がある限り輪廻転生するので、必死になって生きていきたいと貪瞋痴を刺激して意欲を作る必要はありません。

 

貪瞋痴の意欲でも生きていけますが、それは苦しみの道なのです。どういうことかというと、大阪まで歩いていけますよ。しかしわたしが言うのは「のぞみに乗りなさい」と。

“欲は奪う力です。怒りは破壊する力です。痴(無知)は、先を考えないで判断に困らない弱み(飛び込む前に考えることをしない)です。三つが組むと成功より失敗が多い。

欲・怒りの意欲を制御することです。貪瞋痴の意欲でも生きていけますが、それは苦しみの道なのです。”

 

”死ぬことより生まれることを怖がったほうがいいのです。ゴキブリに生まれちゃったらどうするんですかね? 仏教では、生まれることを恐怖して、死をじーっと観察するのです。”

  

貪瞋痴を制御することに、なくすことに意欲を作ると安全です。

生きる上のトラブルも消え、人格も向上します。

その意欲が減るときは、その理由も復活させる方法も理解できます。

 

「現在に集中すること」

心は過去と将来と言う幻覚の中で働いている。それが存在欲と恐怖の世界です。

意欲も何をするべきかも分からななくなります。それは関係のないものになります。

心を現在に集中させておくと意欲は失いません。

  

「高度な目的」

何か高度な目的があれば、意欲は現われます。

金持ちになるのではなく、理性のある知識人になること。

権力財力でなく生命に優しい謙虚な人間に

貪瞋痴の奴隷でなく、貪瞋痴を制御できる人間になること

心の汚れが落ちる

智慧が現れる生きかた

人格向上して成長する目的

このような目的があるとき、やるべきことは目の前に現れます。どれか一つ選んでください。それでやるべきことは自然と出てくる。

 何か高度な目的を作ったら、自動的に人間が向上していく。

それはやり遂げるもの。充実感が現れます。

 

毎日毎日、なにか宿題がある。日々向上する。振り返れば相当進んでいる。解脱の扉の前にたどり着く。それで扉をたたけば開く。

  

正精進

八正道を歩むならば、精神的な社会的な問題は何一つ起こりません。

八正道の六番目、正精進です。

実在する悪をなくす。犯していない悪を犯さない。

実在する善を完成する、実在しない善を行うとは正精進です。

 

「何ひとつも空から降ってくれません」

祈って祈祷して願望がかなうとは迷信です

すべて自力で努力して得る、達するものです。

心を清らかにすることも、成長することも、何をやるべきかと発見することも、意欲を引き起こして目的に達するまで決めたことを実行することもすべて、個人の努力の結果です。

 

「結論」

欲・希望があると意欲が起こるが、失敗したら落ち込みが激しくなります。

喜びと充実感を感じるように生きることです。

自己嫌悪に陥らないように、自分の良心が自分を責めないように生きること

自分の人生は、他人と自己の役に立つならば、人は常に意欲を保つ。何をすべきかと分かる。

 

“何一つ、空から降ってくれません。

個人の努力の結果です。

欲希望があると意欲が起きるが失敗したら落ち込みが激しくなります。

喜びと充実感を感じて生きること。自己嫌悪に陥らないよう、自分の良心に責められないよう生きることです。

自分の生き方が自他の役に立つようにと生きることです。”

 

おわり_(┐「ε:)_パタッ

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本文と関係ありませんが、憲法改正するなら「国民皆ハンモック制」*1を入れてほしい。

 

関連エントリ:先月の月例講演会めも

「聖なる」ものの証明~世間と出世間とのボーダーライン~

*1:「国民皆ハンモック制」とは……『すべての国民が週一回以上ハンモックでくつろぐ権利がある。なんびとも他人がハンモックでくつろぐ権利を侵してはならない。』

これは、苛烈な経済活動を抑制し戦争を回避する効力が認められている。(チエリwikipediaより)