ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

ブッダの出す証拠は科学よりキビシイ(ブッダの治療法3)

「人類」ではなくて「生命」に問題がある(ブッダの治療法2)から続きます)

神様がいるかいないかは、どう頑張っても証拠を出すことは不可能です。

科学者は、証拠がないものは「ない」ことにするんです。

 

あるバチカンの哲学者が言ったのは、「神様が実存するという証拠がないからこそ、神が実在するんだよ」(God exist because no positive proof God exist.) と。

 

それが彼の論理なんですね。それはすごく、まあ、立派な言葉なんですよ。わたしが彼を哲学者としてみると、彼が正直にしゃべっているんです。本人はその世界でけた違いにプロです。

彼は考えた末、「神がいると立証できません。でも自分が信じたい」ということですね。証拠ないけど、自分が信じたいんだよと。

科学者から見ると、なんだこれは、いかれている、というほどのバカげた発表をしますけど、でもわたしは立派な言葉だと思いますよ。

 

なぜならば、ちゃんとガイドラインが現れますね。

科学世界と宗教の世界で。本人がきれいに線を引いてくれるんです。そこをさらに言うと、証拠ないことを信じるのが宗教で、証拠があって信じるのは普通の世界です。科学だけじゃなくて、われわれは経済学を信じているでしょ。皆様は日本の政府を信じているでしょ。助けてくれると。そこはまんざら証拠がないわけじゃないでしょう。日本の政治家がいくら役に立たない連中であっても、意図的に日本国民に悪いことはしませんよ。

 

それぞれの証拠があるんですね。証拠があるから、われわれは科学を信じる、経済学を信じる、お医者さんを信じる、政治家を信じる、ということになっているんです。

宗教を信じる場合は証拠は要らんということになっているんです。

オカシイ宗教家が、証拠を出そうと思って、ものすごい変なことをするんですね。詐欺インチキ行為するんですね。

 

ブッダの教えはどちらでもないんですね。

どちらかと言うとお釈迦様は証拠を出しますからね。

証拠は出しますが、科学より厳しい。100パーセントの証拠を出す。

ですから、俗世間のラベルを貼ろうとするなら、科学なんです。

でもそのラベルはちょっと汚れている。俗世間の科学では証拠は100パーセント必要じゃないんです。ある程度でデータがあれば、推測から推測へ行って、結論を出しちゃいますね。

 

ブッダの証拠は100パーセント変わらない、間違えがない。

 

だから、その思考パターンに慣れてもらうためにこのヴィパッサナー瞑想をやっている方々に、わたしたちが言うことがあります。ヴィパッサナー瞑想中に何か音が入った途端、「救急車」「消防車」「車」「オートバイ」と思うんです。頭の中で。

目を閉じで瞑想しているでしょう。なのになんで、救急車と言うんですか? 

 

そこでわれわれは「音、音、音」と確認しなさいと言うんです。

みんな納得しない。

「救急車と思っちゃ悪いんですか?」と。悪いんです。

あれは証拠がない。過去の思い出なんです。過去で似た音を聞いて救急車と結論を出しちゃう。非科学的でしょう。

証拠がないのに、「この音は救急車と決まっているんだよ」。しかし音はいろんな方法で発生できる。たとえば録音したものを流す。あるいは救急車の音に似たものを出すおもちゃを買ってきてスイッチオンすればいい。

 

自分の耳に入ったのは「音」。それに疑いがある? 証拠が足りない? 100パーセントの証拠でしょう。

 

耳が反応しました。耳は音に反応する。微塵も疑いない。

しかし救急車と言ったところで、推測です。過去のデータです。それを確かめるためにその人は調べなくちゃいけなくなる。この車から音が出て、わたしの耳に入って来た。ですから、救急車ですと、決めればいいんです。しかし問題は、調べるのはその車は通り過ぎた後ですからね。だから実は確かめる方法はないんです。

 

別のパターンでは、外で救急車が止まった。あ、やっぱり救急車だよ、この車が音を出したんですよというのは、間違いでしょう。

 

だからこういうふうに、精密なところなんですよ、仏教の世界は。

それは皆様にわれわれは訓練させちゃいますよ。

完璧な科学者になる方法。完璧な知識、完璧な理性、完璧な知恵が現れる方法。訓練しなくては。

 

今われわれはこの社会で操られて、流されて、ロボットのように生きているだけなんです。

それが悪いというのではない。しかたないことですからね。しかしその世界では、あなたにはなんの救いはありませんとブッダが言っています。

反社会行動を取れというのではない。テロ行為ではない。それは無意味で無駄です。

 

仏教は社会に対する反対行動は認めない。世間常識を守りなさい。ただ、それを守ったからと言って幸せと言うのは考えすぎ。社会の、家庭の平和を守りなさい。でもそれで最高に幸福になるのかと言うと、それは考えすぎ。社会に、家庭には問題がありますよ。というスタンスでずっと語られているんですね。

 

だから人間ならブッダの話を聞くべきなんです。

身体は物質なのになぜ成長するのか?(ブッダの治療法4)に続きます) 

 

(東京・法話と実践会 2015.04.29 スマナサーラ長老 

期間限定公開動画http://www.ustream.tv/recorded/61671391 よりメモしました)

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