ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

刺激や欲があるから頑張れるんですよね?

質問

「安らぎとか、安堵とか、そういうことを目指して生きていることが幸せなのでしょうか? 

刺激とか、欲とか、そういうことがあるから勉強したり努力したり、一生懸命頑張ってる人もいると思うのですが、その生き方は幸せではないでしょうか?」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

世間は、そういう刺激を求める生き方をしていますね。

そのために、宗教を作ったり哲学を作ったり経済学を作ったり科学を作ったりしているんですね。

 

だから(今日の説法で)最初から言っていたのは、それは変だよ、それで解決策は出てこないんだよと。刺激を求めるから問題が起こる。戦争も起こる。

 

だから「人の道」は苦しみを作る道になっているんです。

仕事をしたり勉強したり金儲けするのは、「人間の道」なんです。世間の道。

 

それで何とか生きているんだけど、苦しみから苦しみへ、一向に解決策がでなくて、いくら勉強しても納得しなくて、なんか変ですね。

勉強しないでいることも変でしょう。勉強したんだからと言っても何か、ということもないんですね。

 

だから刺激をなぜ求めるのか? というと、今すでに苦しんでいるから。それに気づいてほしい。

 

何でご飯を食べたくなるのか? というと、おなかがすいているからです。(空腹=苦しみ)

刺激を求めるとは、本来苦しみがあるからなんです。

 

刺激で苦しみが消えるなら、問題なし。でも消えないんです。

おなかがすいたら苦しい。ご飯を食べたらその苦しみは消えますが、今度は満腹の苦しみがある。

 

質問者「では、ずっと寝たまま、横になっていて穏やかだと、それで幸せなんですか?」

 

いえ、それも刺激ですからね。怠けなんです。怠けも刺激なんです。

その気持ちになるのは、起きていろいろ活動して、クタクタに疲れていたときなんですね。仕事して、仕事がうまく行っちゃって、それで横になって「ああ~吾輩は幸せだ」という気分になるんですね。

 

だからいつでも苦しみがなければ価値がない世界なんですよ。

豊かな家族に生まれる子供たちは、あまり金に対してすごいという感じはしないんですね。

 

変ですよ、苦しみが作る幸せは。

安らぎは苦しみをなくすんです。それで結果として、刺激は結構です(遠慮します)ということになるんです。

 

われわれは日常生活の中で、「安らぎがいい、安穏がいい」となると、仲良くなる。

 

たとえば、友達と意見が合わなくても、「平和がいいや。安穏がいい」と思ったら、話が変わるんですよ。対立は対立じゃなくて、お互いに仲良くしましょう、ということになるんですね。

「君は、そういうふうに考えてそういう結論ですか、なるほどわかりました。それでわたしは、こういうふうに考えて、こういう意見です」「ああ、なるほどなぁ」とお互いに理解して終わる。

それはお互いに安らぎを求めたからなんです。

 

ご飯食べるのは美味しいから食うんじゃなくて、肉体が安穏でいればいいんじゃないかと思う。

肉体は壊れるんだから、修復して、元気で活動してくれればいいんじゃない、と適量食べるようになる。よく噛んで食べたほうがいいとか、というふうになる。

 

「わたしは野菜嫌いだから、肉ばっかり食う」ということはなくなっちゃうんです。それは刺激を求めること。肉体には悪いでしょ。だから肉体が病気になっていしまいます。

 

だからご飯を食べるときでも安らぎを求めて食べる。家族の面倒を見るときでも、安らぎを求めて面倒を見る。子供と遊んであげるときでも、子供の精神的安らぎ、自分も精神的安らぎを求める。

 

刺激を求めるのではありませんと。

刺激を求めて子供と遊ぶと、長持ちしませんよ、大人のほうは。子供には体力がないんだけど、疲れたらヘッチャラで寝るんだから(笑)。大人は寝られませんよ、仕事がありますから。

刺激を求めると最悪状態なんです。

 

それで子供との関係が、こじれちゃうんですね。

そうではなくて、心の安らぎ、というふうにいればうまく行くんですね。

 

安らぎ、安穏、平和、対立がない状態を目指して生きること。

いきなり成功しませんよ。しかしいくら失敗しても、失敗することは悪くないんです。

子供と安らぎを求めて遊んだんだけど、大失敗だったと。いいんです、それで。

そこから、なぜ失敗したかと学ぶこと。

奥さんと仲良くしゃべろうと思ったら失敗に終わってしまったとか、そういう失敗はよくありますけど。自我張ってしまったとか、いきなり成功しませんよ。

 

結構失敗するんだけど、失敗から学んで、よりbetterな人間になって、また失敗したら学んで、そうやって目的から脱線しません。安らぎを求めて生きる。

 

逆に言えば、どうせ生きているんだから安らぎを求める。生きることは頑張っても頑張らなくても、生きるんだから。自分の管轄外でしょう。人が寝たきりになっても死なないんですよ。管轄外の事だから、死ぬときは、自然法則によって死ぬんです。

 

これを悪い言葉で言えば、「どうせ頑張っても頑張らなくても、生きられる」。これは完全な言葉ではないんだけどね。

 

心臓発作ですぐ死ぬ人もいて、心臓発作でもすぐに死なない人、がんになってすぐ死ぬ人、がんになっても10年くらい生き延びる人もいる。そこは(長生きかどうかが)幸せかどうかではなく、がんになろうがなるまいが、安らぎを求めて生きる。

「あんた末期です、余命3か月です」と言われたら「ああ、よかった。この3か月間安らぎを求めて生きる。決して課題からはズレませんよ」と生きる。

と言うふうに、目的からずれないで生きてみてください。

 

で、質問にあったのは、「俗世間の生きる道と仏教の生きる道」なんですね。

俗世間の生きる道は、あんまりよくないというのが仏教の立場です。目的を変えてちょうだい、ということです。

 

(東京・法話と実践会 2015.04.29

http://www.ustream.tv/recorded/61671391 よりメモしました)

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