ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

慈悲の瞑想、体感バージョン

質問

慈悲の瞑想の体感バージョンを試してみて、予想以上の効果があったんですけど、自分に対してメッター(慈)を念じて、自分が修行しているシーンをいくつか思い浮かべまして、いろんな恵まれたところがあるということで「幸せだ」とフィードバックしました。

それをメッターでやって、それから次にカルナー(悲)、ムディター(喜)と進もうとしたときに、『メッターでこれだけ幸せなんだから、もう悩み苦しみもないし』と、こころがスルーしちゃったんですね。

要するにメッターだけで十分で、カルナー、ムディターはもういいんじゃないかとスルーしちゃったのは、それはどういうことなのでしょうか?

 

それと、長老が、『この体感瞑想は、慈悲の瞑想のノーマルバージョンより心の成長がかなり早い』とおっしゃいましたが、それはどういうことなのかなと。

それから『この体感瞑想は、人によっては副作用がちょっと危険だ』というのは、どういうことでしょうか?

 

最後にもう一つ、『実況中継も、気づきの心が次の心のフィードバックになっているのではないだろうか』と思いましたが、いかがでしょうか。」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

第一番目の、慈悲喜捨をやっていて慈だけでいいんじゃないかというのは、それもその通りだと思いますよ。

人間の心が、四つも反応しないんです。慈悲喜捨のうち一つに反応するんですね。それはわからないんですね。わからないから全部まとめてやって、やって、やっていくと、慈悲喜捨のひとつで、すごく自分の心が成長して集中できるようになるんです。それが自分バージョンですね。

 

だから無理に、分かってもないのに、何も心に変化がないのに、何も心に影響がないのに、他をやると結構疲れると思いますね。

そこですごく早く成長するバージョンでやるんです。

 

二番目は答えるべきではない質問だったけど……(笑)。どんな質問だったっけ?

 

質問者「この体感瞑想は、慈悲の瞑想のノーマルバージョンより心の成長がかなり早いとおっしゃいましたが、それはどういうことなのかなと。

それから、この体感瞑想は人によっては副作用がちょっと危険だというのは、どういうことでしょうか?」

 

今言えるのは、自我の錯覚が、もしかすると強化されるとすごく危険になるんですね。

慈悲の瞑想が正しく行く場合には、自我というものが消えていくんです。これはセルフ・マインドコントロール・バージョンだからね。

どうせもともと自我の錯覚があるんだから、自我の錯覚が出て来てマインドコントロールするようになっちゃうと、たとえ言葉が慈悲であっても、エゴイストになっちゃうようなら、これはもう、恐ろしい副作用になっちゃうんですね。

 

正しく成長する場合は、「私、私」「自分だけ」というのが薄くなります。

それだけチェックした方がいいです。

 

「我は慈悲の瞑想をやっているんだから大丈夫だぞぅ。それなのに、あんたがたは何だ」となっちゃうと危険なんですね。慈悲が現れるほど、どんどん謙虚になって行って、生命は対等で平等に見られるようになっちゃって、生命の上に立ってゴチャゴチャと言いません。

それとは反対になってしまう失敗ケースはありますから、恐らくそのことを言ったんだと思います。

 

修行して、なんか態度がでかくなる、というのはあるんですね。あれが修行の副作用なんです。修行自体は真面目にやっているかもしれませんけど、「俺は修行している。汝らは修行していないでしょう」という態度があるんですね。だったら、副作用は丸ごと受けています。そこは経典でもお釈迦様がアドバイスしています。

 

たとえば、怒りを戒めている二人がいます。一人は、「わたしは怒りを戒めている。しかし他の人は全然怒りを戒めていない」と思う。

もう一人は、「わたしは怒りを戒めて生きている」それで終わり。

「他の人は何だい」とは思わないんだと。

 

この二人のうち優れているのはどっちですかとお釈迦様が聞く。比丘たちの答えは「二番目の人です」と。

 

これで何を教えたいのかと言うと、「自我の錯覚が割り込んでいるか、いないか」なんです。そこはどんな瞑想にも、気を付けなくちゃいけないポイントなんです。

 

気づきの場合は、気づく場合はおきた出来事、英語で言えばimmediately past、起きたその場で、気づくことなんですね。

次に生まれる心を気づくことはできないんです。

 

法則を分かってくると、知識ではなく何となく智慧でね、こういうことが起きたら次にこういうことが起こるはずというのが見えてくるんだけど、それは言葉ではないんですね。智慧で分かるものは言葉にはならないんです。言葉にした時点で知識になるんですね。

 

とにかく、今起きたことは今すぐ確認するということが気づきなんですね。

(東京・法話と実践会 2015.05.10

http://www.ustream.tv/recorded/62088084  よりメモしました)

f:id:thierrybuddhist:20150513210405j:plain
関連外部サイト:

Q:先月は、慈悲喜捨の冥想についてお聞きしていましたが、一番むずかしいとおっしゃっていた「捨」の冥想について、もう少し教えていただけますでしょうか。

A:「捨」の冥想実践方法についてはどの注釈書にも明確に説明されておりません。しかし、それを知りたいという興味がおありのようなので、少し説明いたします。

 

 関連エントリ:

「体感瞑想」で原始脳を上書きし、早く結果を出す

体験すると言うことは、そんなに難しいことじゃない。

 慈悲の瞑想があります。

ゆっくりと焦らないで、のんびりと「私は幸せでありますように」と一回だけ言ってみて、感じてみるんです。「やっぱり私は幸せだ。大した問題はないんだ。不幸ということもない」と。

 

すべての「説法めも」を読むには:

【目次】説法めも