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Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

スーパーで売っていても魚は魚じゃないですか|殺生について

 関西定例冥想会 スマナサーラ長老法話 2009.11.15

http://www.voiceblog.jp/sandarepo/996682.html  よりメモしました。

 

質問「スーパーで売っていても魚は魚じゃないですか。それって殺したものを食べているということでしょう。それは『殺生』とどうちがうのですか?」

 

回答(スマナサーラ長老)

まあ、スーパーにあるのは魚ではなくて「死骸」なんですね。

スーパーでも生きている魚を買って食べたら殺生になります。

 

質問者「じゃあ、パックで売られているのは死骸だから殺生にならないと?」

 

殺生になりません。

 

質問者「それは悪いことじゃないんですか?」

 

意志がね、罪だから。(死んだ状態で売られている魚に対しては)殺したいという意思が生まれないんですよ。食べたいという欲が生まれますけどね。しかし、殺したいという意思は生まれないんですよ。

人間があまりにもむさぼって魚を食べているんだからというのは、また別の話になります。われわれが食べているんだから漁師さんが魚を獲っているでしょう?

 

質問者「はい」

 

だから、それは間接的に殺すことになっているんではないかと言えば、間接的に殺すことになっていますね。しかし、罪にはならないんです。だって、殺す意思はないんだからね、こちらには。しかしあなたが欲張って食べているんだから、長い目で見れば死んでいるでしょう、という理論は合っていますね。それを解決するためには、人類がみんな魚を食べるのをやめなくてはならないんです。

 

質問者「でも、食べたいです」

 

食べたいという気持ちがあるかぎりは、魚は死にますよ。

 

質問者「食べたいという気持ちは悪くないんですか?」

 

それは悪いかどうかではない。体が壊れますから、どんな生命でも、食欲は出てきます。それは体を持っているせいですからね。それをいいとか悪いとかいう問題ではないんです。

 

魚でも何でもいいから栄養になるものを食べたいという場合はいいんだけど、せっかく魚を食べるんだから活け造りを食べたいとかね。もうちょっと贅沢にね、目の前で大きな海老を捌いて刺身にして、頭がまだ生きているのに、その状態の刺身を食べたいというのは漁師さんより残酷ですね。それは恐ろしい殺生になるんです。

 

漁師さんたちは大量に魚を殺しているんだけど、それがどれくらい残酷な行為になるかどうか、個人的に付き合いがないのでよくわからないんです。

 

だから念のために菜食主義になるという方法もありますけど、だからといって、それで生命を助けてあげたっていうことにはなりません。殺す量はそのまんまなんです。

 

質問者「魚と野菜って別なんですか?」

 

植物には感覚がないからね。痛い、とか、逃げろ、とか。まあ一応、細胞だから自分を守ろうとしますけど。たとえば、なんのためにリンゴが出てくるんですかね。種だけ出てくればいいでしょう。リンゴの身を食べないと、種が出てこないね。

 

一番面白いのは、なんでバナナが出てくるのかと。バナナっていうのは下から新しい芽が出るんです。あの花と実は何の関係もないんです。バナナが芽を出すためには。

バナナは受粉する必要もないんです。できない。雌花がでっかくなって咲いてから、それから、下から雄花が出てくる。これも何のためかと聞きたいんだけど。なんやこれはと思うんです、わたしも。

 

雄花の場合は大量に蜜が入っているんです。わたしも子供のころ、取っては飲む、取っては飲む。ものすごい量なんです。だからミツバチが来たらそれだけで十分なくらい、大量。だから何のためかと、あなたはここまで頑張っているのは。

 

そこで、バナナは種がない。種の形はあるんだけど、退化して意味がないんです。種が退化する割に、実はどんどん発展しているんです。だからわたしにとってそれはすごく不思議ですね。なんていい奴かと(笑)

人間も、ミツバチたちも、いっぱい楽しませてもらって、栄養を与えてくれて。猿でも、いろんな動物もバナナを食べますからね。バナナは「君たちから何も期待してないんだよ」と。

ま、一つありますけどね。実ったバナナをとると、木が死にます。バナナは木と言っても葉っぱが固まって長くなっているだけ。それはそのまま死にます。その周りの8~10個くらい芽があるでしょう。そのまま放っておいちゃうと成長しないんです。ときどき細菌が入ったりして病気になったりもします。

 

人間が、バナナを取ったら、周りの芽を一つずつ株分けして、別の場所に植えてあげるんです。そうするとまた立派なバナナが出るんです。同じ場所ではダメなんです。同じ場所では、退化して死んでしまいます。

 

それくらいでしょうね、バナナが人間に期待しているのは。おそらく。

だから、植物を食べることで植物に害はないんです。

 

例えば米は、人間が食べなかったら他の草と一緒に生えているだけでしょう。でも人間が食べるから、堂々と王様のような立場でいるでしょう。人間が米を食べて生かしてもらっているから、米を王様のような立場にしているんです。

お互いに助け合うならばね、これは罪になりませんよ。協力し合っているんだから。

魚に対しては、えらい迷惑だけど。

 

死骸っていうのはね、人間は肉・魚を食べるのに慣れてしまったから、栄養を取りやすいっていうことにはなっているんですね。肉魚というよりは、「死骸」という言葉を使ってみてください。

 

「今日は魚の死骸を食べています」と言うのは嫌でしょう? マインドコントロールされています。わたしが食べる場合はハッキリと、「死骸・死体」と思っています。「今日は鰯の死体を食べました」と。

それで論理的に出てくる問題は解決します。

 

だから仏教は「肉魚を食べるなかれ」と言ったら正しくないんです。魚という死体は、自分に影響を与えるし、自分が食べなくても死んだ魚はもう元に戻ることはないでしょう。海の中では、自然の中では、魚の死体は他の生命のエサになって貢献しているんです。野生の動物も、死んだらお墓は要りません。必ず誰かが食べるんです。

 

ですから、人間が食べることで殺生になるというところで、ちょっとギクシャクしますけどね。だからといって、肉魚を食うなと言ったらまた論理がギクシャクするんですね。個人の好みで肉魚を食べるのをやめるならば結構です。

菜食主義の人のほうが肉魚を食べる人より親切というのは、余計なことですよ。それは実際わかりません。

と、いうことになります。

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