質問
「自分は自我が強くて、人にどう思われているか、仲間内でどう評価されているかが気になります。
また、あの人には会いたいけれど、この人には会いたくない、という執着の気持ちに振り回されることが多くて、そんな中で長老の話が耳に入りました。自分なりに冥想しているんですけど、出家して涅槃の境地に達するためではなく、あくまでもこの俗世間に踏みとどまって、強い心を持ちたいという打算的な動機でやっています。
最近は、そのこと自体が、俗世間に留まりながら一つの状態に達したいと思うことが執着じゃないかと思うようになりました。
執着したくない気持ちに執着するというジレンマがあるんです。それはどうしたらいいでしょうか?
もう一つ、怒りに関してですが、わたし自身、長老の本とか動画を拝見いたしまして、長老がエネルギッシュというかエモーショナルな印象を受けました。つまり、長老の言動から『怒り』を感じることがあるわけです。
すごくくだらない質問になりますが、長老自身は解脱し、覚りの境地まで達しているかどうかを聞いてみたいと思います」
回答(スマナサーラ長老)
すべて自我という錯覚からできている問題ばっかりなんですね。
だから、答える必要はない質問なんですね。自我っていうのは錯覚ですね。そちらは「ほんとかい?」という立場でいいんです。で、冥想してみれば錯覚ということを発見します。
錯覚だから仕方がないんですよ、もう。そんな簡単に錯覚は消えませんから。錯覚は現実ではないんだから、錯覚に基づいて生きる場合は、トラブルしか生まれません。
たとえば人が、自分のことをどう思っているかは、知る余地もないんですね。だから人にどう思われても関係ないでしょう。人っていうのは、好き勝手に物事を思うんだから。管理できるわけないでしょう。これ、(世の中でも)世界のすべての生命を管理しようというところまで、おかしさが膨張しているんですね。
だから自我がなければ、まあ、みんなそれぞれの考えを持っているんだよ、ということで終わっちゃうんですね。そうすると楽なんですね。
たとえば「お前は馬鹿だ」と言われたとしましょう。冗談抜きで本気で。すると、自我がある場合は、怒る。自我がない場合は、「なるほど、この人はそう思っているんだ」で終わり。「この人の考え方はそういう考え方ですね」「怒ってい言ったのは、この人のこころに怒りがある。怒りだけでみたら、怒りはずっとあるわけじゃないし、そういうことか」と、そこで終わっちゃうんです。
自我があったら、「なんだ、お前は!」と攻撃をかけて、すごいトラブルを作っちゃうんですね。
(質問者の方が)考えた疑問はすべて、自我の錯覚から考えたものですよ。でも、一ついいところがありますよ。自分がすごく自我中心で物事を見ているんだ、とわかっているでしょう。これはすごくいい成長なんです。その理解自体が素晴らしいんです。「わたしは自我を張っているんだ」と。
次のステップに行ってください。自我を張って、自分が何を得るのか? と。
次にそれをチェックしなくちゃいけない。そうなってくると、トラブルだけで、悩み苦しみだけで。
たとえば、他人からどう思われるのか、と考えた時点で、自分の命がぎゅうっと絞られて、狭められて、手も足も出ないことになっちゃうんですね。
反対もよくないんです。「他人からどう思われてもいいや」というのも自我なんですね。「人はどう思っていいじゃないか、わたしはわたしのやり方でやる」というのは自我の悪いバージョンなんですね。他人にどう思われるかと気に掛けることは、ある程度で悪いんだけど、完全に悪いというわけではありません。そこはちょっと修行して頑張らなければいけないことなんですね。
だから一般世界では慈しみを実践する。慈しみを最初に実践すると、自我が消える場合も消えない場合もありますけど、「わたしも生きている、あなたも生きている。わたしも一つの生命、あなたも一つの生命、みんな平等だ、生きる権利があるのだ」となったら自我を張らなくなっちゃうんですね。
人が「あなたは馬鹿だ」と言ったら、「あなたにはそう言う自由がある」
「あんたはすごく頭が良くて素晴らしい」と言ったら、「あなたにはそう思う権利がある。何か原因があってそう思っているでしょう」と、生きていけますね。慈悲の実践で。
(長老は覚っていますか?|自我と執着(後編)へ続きます)
東京法話と実践会 2015.07.12
http://www.ustream.tv/recorded/67329399 (期間限定公開動画)よりメモしました。
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