(自我と執着(前編)より続きます)
最終的には自我が錯覚だとわかるんですね。
「わたし(長老)が覚ったかどうか?」というのも、自我で聞く質問ですね。
だからそちらには答えがないんです。「わたしが覚った」と言ったら自我でしょう。
わたしに言えるのは、わたしはもう、そのまま生きているだけ。
言葉にするならば、わたしに対しても、個人として見るなら、周りの人々はいろいろトラブルを作っちゃうし、それでこれを解決しなくちゃいけないとわかったら、そのときの自分の考え・生き方、何やかやと一時的に作っちゃうんです。それは自我なんですね。それで、「あんたは間違っている。これはこうしたほうがいいんじゃないか」と言う。
でも、それは無理をして作るんですね。そうでなければ「それはあり得ることで、別に」という感じでいるんですね。周りから、「あんた、そんなのんきでね、これはとんでもないことだ」とガチャガチャと言われる。世間は自我を持っているんだから、わたしからみれば人は失敗するというのは当たり前で、呼吸するような感じで、こんなことに怒ってどうするのか? と。
世間が「こんなことはよくない。あなたのせいだ」と言うと、「じゃあ何かやらなくちゃあかん」と、それで自分がそのケースについて、自分で仮に自我を作って対応する。それが終わったら、そこ(仮の自我)は、「はい、さよなら」と。仕事は終わりましたからね。
だから、自我があるかないかではなくて、それぞれの人に会う場合は、それに適した自我を作るんです。
だからわたしは結構難しい話をするんだけど、子供たちとも結構うまくいくんですよ。大人たちがびっくりするくらい難しい質問を聞いたりする。なぜならばわたしはその時々の世界に自分を変えるんですね。
答えにして言うなら、「都合によっていつでも変えられる自我を持ったいるんだ」です。
わたしにもどなることはできますけど、あんまり(どなったり)しないんですね。
「覚っているかどうか?」と聞かれても、よくわからない、わたしも。
一つ言えるのは、誰かが「わたしは覚っているんだ」という人は、覚っていないんですね。それはもうはっきりするんです。
(おわり)
東京法話と実践会 2015.07.12
http://www.ustream.tv/recorded/67329399 ~1:33:30頃(期間限定公開動画)よりメモしました。
関連エントリ:どのようにしたら覚ることができますか?
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