ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

長老は覚っていますか?|自我と執着(後編)

自我と執着(前編)より続きます)

 

最終的には自我が錯覚だとわかるんですね。

「わたし(長老)が覚ったかどうか?」というのも、自我で聞く質問ですね。

だからそちらには答えがないんです。「わたしが覚った」と言ったら自我でしょう。

 

わたしに言えるのは、わたしはもう、そのまま生きているだけ。

言葉にするならば、わたしに対しても、個人として見るなら、周りの人々はいろいろトラブルを作っちゃうし、それでこれを解決しなくちゃいけないとわかったら、そのときの自分の考え・生き方、何やかやと一時的に作っちゃうんです。それは自我なんですね。それで、「あんたは間違っている。これはこうしたほうがいいんじゃないか」と言う。

 

でも、それは無理をして作るんですね。そうでなければ「それはあり得ることで、別に」という感じでいるんですね。周りから、「あんた、そんなのんきでね、これはとんでもないことだ」とガチャガチャと言われる。世間は自我を持っているんだから、わたしからみれば人は失敗するというのは当たり前で、呼吸するような感じで、こんなことに怒ってどうするのか? と。

 

世間が「こんなことはよくない。あなたのせいだ」と言うと、「じゃあ何かやらなくちゃあかん」と、それで自分がそのケースについて、自分で仮に自我を作って対応する。それが終わったら、そこ(仮の自我)は、「はい、さよなら」と。仕事は終わりましたからね。

 

だから、自我があるかないかではなくて、それぞれの人に会う場合は、それに適した自我を作るんです。

だからわたしは結構難しい話をするんだけど、子供たちとも結構うまくいくんですよ。大人たちがびっくりするくらい難しい質問を聞いたりする。なぜならばわたしはその時々の世界に自分を変えるんですね。

 

答えにして言うなら、「都合によっていつでも変えられる自我を持ったいるんだ」です。

 

わたしにもどなることはできますけど、あんまり(どなったり)しないんですね。

 

「覚っているかどうか?」と聞かれても、よくわからない、わたしも。

一つ言えるのは、誰かが「わたしは覚っているんだ」という人は、覚っていないんですね。それはもうはっきりするんです。

(おわり)

 

東京法話と実践会 2015.07.12

http://www.ustream.tv/recorded/67329399 ~1:33:30頃(期間限定公開動画)よりメモしました。

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関連エントリ:どのようにしたら覚ることができますか?

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