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ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

寂しい(1)「犀の角のごとく」の正しい意味

説法めも 仏教と日本・仏教哲学

質問

「寂しさということについてなんですが……。

自分の生活・人生のバックグラウンドをなしてるのが「寂しさ」ということなんじゃないかと最近思い始めています。長老や仏教の本に寂しさという言葉があまり出てこない気がするんですよ。

寂しさを回避しようとすることが自分の行動のほとんどすべてなんじゃないかなとも思います。

それはもしかしたら、怒りの一部(不善心所)であるのか、それともドゥッカ(苦)というものの一部なのかと考えたりしますが、どうなのでしょうか?」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

えーと、寂しい、と言う問題は今まで扱ってないんです。

それはなぜかと言うと、講演テーマを作る場合は、一応、仏教全体をみて、どのようにポイントを扱うべきかというふうに考えて、今までテーマを作って来たんです。

 

わたしはそのテーマを作りませんだけど、素晴らしい人がいて、もうやめましたけど、これからどうなるかわからないんですけど、その人が質問とかテーマとか作っていたんですね。「今回はこのテーマで、次はこのテーマで」と。

「寂しい」というテーマを扱っちゃうと、結構、仏教の厳しいところにアクセスしなくちゃいけないんです。

 

しかし、まぁ、ネタ切れもありますから、これ(寂しい)をテーマにしたんです、最後に。

三回に分けて、東京・新宿の朝日カルチャーセンターで授業をしましたけど、容量はものすごいんです。だから、いつ、ほかの方々に知られるようになるかはわかりませんけど、あれは、三回の授業では扱えないんです。本来、一つの授業は一時間半なんですけど、わたしは二時間半ずつやりました。それで三回に分けて終了は、しました。

 

「寂しい」というテーマで必要なものは全部、一応発表はしました。データは残っていますからね。いつか、世に出るだろうとは思います。

 

じゃあ、省略して説明します。

 

まず質問に答えますね。

「寂しさは、dukkha(苦)でしょうか?」と言えば、その通りなんです。あるいは、怒りに関係あるものでしょうか、と言えば、そうなんです。

寂しさっていうのは生きる苦しみでもあるし、感情的には怒りでもあります。しかし、そんなにシンプルに説明できるものじゃないんです。

 

日本で人気ある経典がありますね。犀(さい)の角(つの)の経典という。中村元先生がね、「ブッダのことば」、そういう本を出されまして、学者としての立派な訳ですけど。

そこで一偈、二偈は、みんな、なんとなくわかってしまうということがあって、これが日本で広がってしまって、大きな問題ですよ。わたし個人的に考えると。

 

そこで講演するときに、犀の経典に、日本の人はどこまでアクセスして興味持っているのかとインターネットで調べてみたんですね。結局、いろんな人が、自分の好き勝手な自分の哲学を、あの経典を盾に使って語っているんですね。持論を語るために、「これがいいポイントだ」とあの長い経典の気に入った一部だけとったりする。これは本来の意味じゃないんです。

 

わたしは犀の経典を引用して説法はしません。なぜかと言うと、難しいんです。わたしにしたっても難しいんです。説明するのが。

中村先生のシンプルな日本語訳があるからと言って、だから危ないんですよ。そんなシンプルじゃないんです。

 

わたしは講演のためにいろいろ調べましたから、結局は、中村先生もわかってない、ということになるんです。そんなことは、偉大なる先生方に対しては、悪口を言ってはいけませんし、存命で研究している場合はね、ちょっと批判しても構わないんですけど、もう亡くなられているしね。学者の中で大先輩でしょうし。だから、それはやっぱり、言ってはあかんですね。それを傷つけてはいけません。

 

でも、わたしはなんか悪口言っちゃいますから、あれは「犀の角」と訳しているところから間違っていますよ。経典のタイトルから間違っています。そういったところで、英語訳でも「犀の角」ですよ、と。わたしは「だからと言って、みんな間違っていますよ」と。一人の学者が間違ったら、ずーっと同じことを繰り返しちゃいますよ。

 

「犀の角のごとく一人で生活する」ってどんな意味ですか。よく考えてください。犀の角は生活しませんよ。

 

どこで間違ったかと言うと、パーリ語で、khaggavisaanaなんですね。Khaggaだけ切っちゃって、辞書を引くと、出てくる単語は「剣(つるぎ)」なんです。Visaanaは一つの単語なんですよ。Visaana(visāṇa)で辞書を引くと出てくるのは「角(つの)」なんですね。*1

 

剣と角が合わないんだから、「犀の角」としちゃったみたいですね。それも間違いではないんです。サンスクリット語で、パーリ語で、いろんな人の名前を付けるときは、あるしきたり・習慣があるんです。それが、ちょこっとしたあだ名っぽく作るもので、たとえば、象さんにあだ名をつけるなら、「鼻が手である者」なんですね。象さんにとって鼻は「手」なんですね。「鼻が手である者」を、「鼻の手」と訳しちゃうと間違えなんです。

 

象さんの様子を見ると、鼻で物を取ったり振ったり、食べたりとかすべての仕事を鼻でやっていますね。他の動物は手でやっているんですね。だから象にとっては鼻は手ですね。

象の場合は同義語がたくさんありまして、一つは、「鼻が手」なんです。

 

同じやり方で、犀の角は、剣の形をしています。剣もいろいろあります。日本刀じゃないんです。中東とかで使っている剣ありますね。曲がっていて太くて、見る限り怖い、人の首をちょん切るために使えそうな、太くて曲がっている剣。

 

犀の角は、全く、その形なんです。だから、khaggavisaanaは「剣のような角」なんです。

だから、「犀」なんです。「犀のごとく一人で歩め」と訳さなくてはいけないんです。

 

犀というのは、現代的な知識で調べると、視力がすごく悪いんです。五、六メートル先は見えない。ちょっと動いたものがあると、サッと行って攻撃する。だから、犀同士も群れは作らないんです。危ないから。もしかすると、昔はいっぱい犀がいましたから、その様子を見ると、どれも一匹ずつ行動している。そこから、文学的アイディアを作った可能性はあります。犀は群れでは生活しない。

 

象だったら群れですから、いつでも。ライオンは群れ。オオカミは群れ。みんな群れです。それを見て、あの経典のタイトルにした可能性はあります。

 

日本では人気がある経典ですが、すごく誤解しやすい。

誤解っていうのはこういう誤解なんですね。

一人ぼっちの人間が、あの経典をみて、「よしわかった、俺もこの通りにやってやるぞ」と思っちゃうんです。「俺も犀の角のように一人で生活するんだ」と。

 

eko care、一人で歩む、つまり、一人で生きる。khaggavisaanakappo、犀のように。Kappoというのは生活習慣ですね。

「犀の角」というのは、落ちますからね。犀の角は毛と同じ物質で固まっているもので、本物の角じゃないんです。頭蓋骨から出てくる骨の一部ではありません。

犀の場合は、骨ではなくて、毛のカロチンが固まったものです。武器にはなりますけど。

そんな生物学的なことはどうでもいいんですけど。

 

「俺は一人ぼっちでいいや」と調子に乗るための経典ではありません。

あの経典は何を語っているのかと言うと、完全にこころ清らかにした人、一切の煩悩を絶った人は、おのずから独立だよと。それを文学的に美しくうたっているんです。

 

「おのずから独立」ということと、「獲得する独立」は違うんです。束縛はないんです。そこで、われわれ一般人は、いっぱい束縛があるんだから、依存して生きていなくちゃあかんです。

独立は成り立たない。独立は不可能です。それをわかってないんです。それをあの経典は語っているんです。「あんたがたには無理や」と。「わたしたちは違いますよ。一人でやっていますよ。できることなら、どうだい」という、なんとなくそんな感じの経典なんです。

 

だから、あの経典は、「解脱者がいかに一般社会と違うのか」というところをうたっています。

真似する必要も、真似しようとする必要もありません。あれはお説教ではありません。驚いてもらっちゃえば十分です。「ああ、びっくりや」と。「おっかないんや」と。

「解脱者はおっかない、(一般人には)わからない」という程度のところで終わったらよかったのにねぇ。

寂しい(2)エゴイストで寂しがり屋に続きます)   

 

関西定例冥想会 2010.12.12

http://www.voiceblog.jp/sandarepo/1294974.html よりメモしました。

f:id:thierrybuddhist:20150805102016j:plain

 

関連エントリ:中村元先生の著作と長老との違いは何か? 

すべての「説法めも」を読むには:【目次】説法めも

追記:

*1:2010/12/28 No.375 ブッダは「単独行動」に自信あり 5

http://www.geocities.jp/dhammini131/howa375.html

Sabbesu bhuutesu nidhaaya dandam,
 Avihethayam anntarampi tesam,
 Na puttamiccheyaa kuto sahaayam,
 eko care khaggavisaanakappo.

 

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