(寂しい(1)「犀の角のごとく」の正しい意味から続きます)
しかし、こういう問題がわたしたちにはあります。
わたしたちは一人一人がエゴイストなんです。
われわれのこころが、自分のことしか知らないんです。世の中を見ていても、これは自分が見える世界であって、隣に座っている人も同じ世界を見ているわけじゃないんです。その人の世界はその人に見えた世界なんです。
だからわからない、それは何かと。
おにぎりをもってきて、じゃあ二人で食べましょうと。わたしは一つ食べて、相手も一つ食べて。「おいしいですね」「ああ、おいしいですね」とお互いが言うんだけど、ほんとはコミュニケーションが成り立ってないんです。その人が何を味わったのかとわたしはわからないし、わたしは何を味わったのかとその人はわからない。
だからわれわれは、本来、エゴなんです。逃げられない、それから。エゴだから、一人でやりたいんです。それになってくると、世界で生活しなくちゃいけないのに、希望通りにはいかないんですね。結婚したら、自分のわがままで生活したかったのに、相手の言うとおりにやらなくちゃいけなくなって、苦しくなってくる。子供くらいは自分が管理すると思ったっても、違います。生まれた瞬間から、子供は子供の勝手にやって、自分の自由がなくなっちゃって、子供の生活に合わせなくちゃいけなくなる。
だから、現実はそうなっているんですが、本心はエゴイストで、一人になりたい。
仏教から言うと、その戦いは無意味だからいい加減にやめなさいと。あなたは、いつでも他人に依存して生活しなくちゃあかんでしょう。子供がいないとあなたは寂しいでしょう。だからと言って、子供が欲しいけど、わがままにも生活したい、というのは成り立たない。だからわれわれは、ずーっと自分が本心で期待している独立精神を犠牲にしなくちゃいけないんです。
みんなそう感じているでしょう? 自分が献身的に頑張っているんだとか。家族のためにものすごく自我を捨てて頑張っているんじゃないかと。自我はそうじゃないんです。自分が自分の本来の気持ちを犠牲にしているんです。犠牲っている言葉なんですよ。だから、何か一言いいたくなるんです。
「お母さんはあなた方のためにやっているんではないか。なんで言うことを聞かない!」
そんなこと言わなくても、別に。なんで言うんですかね。あれは間違いでしょう。
「頼んでないんだよ」と言われたらどうする? ときどき言いますよ、子供たちは。お母さんはビックリですね。なんだ、これは、とかね。それで、いろいろカウンセラーのところとか、宗教のところとか、「子供との接し方を教えてください」と。
教えるものはないんです。あれは事実ですから。
教えられるとしたら、「そんなことを言ったらお母さんに失礼でしょう。あなたを育てたんだからね。黙っていなさいよ」と言う程度なんです。
「あなたのためにやっているんだ」と言っても、なんでそんな言葉が出てくるかと言うと、自分が犠牲になっているんですね。わがままで生きたいという、自分の気持ちが犠牲になっているんです。献身じゃない、犠牲なんです。献身は楽しいですからね。
子供相手に「献身的に」という単語は成り立たないんです、本当は。だから、犠牲っていうことになるんです。
それで、仕事へ行くでしょう。どこかで「嫌だ」という気持ちが出てくるんです。なぜかと言うと、自分のわがままは通じないんです。向こうが言うとおりにやらなくちゃいけないんです。嫌なんです、言うとおりにやるのは。いちいち命令されるのは嫌なんです。上司であろうが、社長であろうがね。
ときどき、自我が働かない場合は、命令されてもへっちゃらなんですね。自我も上がったり下がったりですから、「~やってください」「はい、わかりました!」と喜んでやる場合もあります。そのときは、自我が表に出てないんですね。表に出ている場合は、かなり混乱する場合があります。自我が上がっている瞬間に何か言われて、トラブったら、精神的にもやられてしまうまでになる可能性があります。
われわれは、本心的にエゴイストで自由が欲しいんだけど、誰かがいないと生活できないんですね。この矛盾と言うのはずっとあるんです。
寂しいというテーマでしゃべってくださいと言われても、そう簡単ではないんです。
(寂しい(3)誰かに依存したい - 瞑想してみるに続きます)
関西定例冥想会 2010.12.12
http://www.voiceblog.jp/sandarepo/1294974.html からメモしました。
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