ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

なんで人は念じるのか?(6)ブッダが勧めた「念じることば」

なんで人は念じるのか?(5)間違ったら命とり から続きます)

なぜかと言うと、当時、64くらい宗教がありましたから。これもへんな宗教じゃなくて、ほんとに中身のある、修行する、すぐれた哲学者による宗教なんですね。長部経典第一に書いてあります。

それでもお釈迦様は「全部だめだ」と一言で言いました。その理由を明確に説明している。本人たちにもわからなかったことも。

 

お釈迦様はデータを取ります。もしそのデータが正しければ事実で、データがなければ存在しないんです。

「神がいる」ということについては、一つさえもデータが存在しないんです。いくら頑張ってもデータが取れるはずがない。

それでも皆は「神が存在する」と思っています。

ということは、こころが悪いことを念じて、念じて、そのこころの働きを悪用したということです。

 

はい、そこを覚えてください。

繰り返すことは誰でもやっています。動物さえも。

 

でも、わたしの幸福を願うならば、何を繰り返して念じるべきか。何を習うべきか。

自分のためにあることを習うなら、あきらめずに、自分のこころが変わるまで、やらなくちゃいけない。変わったら、また元に戻るということはありません。

 

「なにがあっても怒りません」という文句を唱える、念じる人が実際にいるとしましょう。

その人には、怒りを克服できますね。一週間程度で、結構、怒ることがなくなっています。一年、二年とやるなら、かなり怒りは克服できます。

 

それでもブッダは、「でも安心はできない」と言うんです。完全に怒りが入らないように、人格が変わるまでやらなくちゃいけない。それで、怒りが取り除かれたことになります。ブッダの冥想法はそういうことなんです。ちょっとのことでは、やめません。

 

悪い原因は、全部出て行って、また入らないように、人格を構成する。それでもう、OKということですね。「煩悩を取り除きました」と。それで安心です。戻れない。

 

お釈迦様もそこは、たとえでね、でっかい岩をね、二つに割ったとしましょう。またくっつくと思いますか? くっつきません。

そういうたとえが、ほかにもいくつかあります。

 

 

はい、そこで、ついでにもうちょっと話があります。

ついでに言いたいことがあって、それがきっかけで今日のテーマを考えたんですけどね。考えるといってもあまり長い時間じゃない。この部屋に入ってここに座るまでに考えたテーマなんですけどね(笑)。だから妄想しないで役に立つことを考えると、たった一分で十分です。大量のことを整理整頓できます。

 

この部屋に入ったとき、おなかが痛くて、冥想会を中止にしたいなぁと、それくらい体調がわるかったんですけど、それでも何かしゃべらなくっちゃあかんだから、何しようかな? と考えると、「こういうことにしよう」とすっとできてきます。

 

この「ついでに言いたいこと」がポイントになったんです。

「ギャーテー、ギャーテー、……」と念じるでしょう? 「オーム、……」とかね。あれって何ですかね? 

念じたら何かなるのか? あるいは「何妙法蓮……」と念じるでしょう。何かなると思う? 

呪文をいくつか調べようと思ったんですけど、忘れちゃった。

 

この間ある真言のお寺に行きましたけど、便所に入ったら、なんか呪文が書いてある。あれはサンスクリット語をカタカナにして、それを漢字にして書いてある。日本人にはさっぱりわからないでしょうね。わたしは元のサンスクリットに戻していろいろ考えて、便所にいる間に、一つはやっと解読できましたけど。「怒り」という単語を入れて、「オーム」として、それで怒りが飛んでいくと思っているんです。サンスクリット語のクロダを漢字で書いても、それがサンスクリット語でクロダということはわからないでしょう。

 

それから手を洗うところに行ったら、別の呪文。台所にも、ご飯食べるところにも、何か違う呪文があるでしょうね。

あれって何でしょう?

そういうことで、無意味な言葉を唱えても、何にもならないんです。言いたかったのは。

 

「生きとし生けるものが幸せでありますように」というのは意味があるでしょう。それを唱えると、自我がなくなるんです。エゴが消えてしまって別な人格になったら、もう元に戻せません。その人は聖なる人間なんです。人類がそういう人を尊敬するなら、尊敬すればするほど幸福になります。

 

意味のない呪文を繰り返してしまうと、迷信を固定するだけです。

迷信は絶つべきであって、人間は知識・智慧を発達させるべきであったら、意味のない呪文は猛毒になります。

 

呪文文化っていうのは、インドで迷信に凝り固まっている人々が作ったものなんですね。どうしても悪用しちゃうんですね、このこころの能力を。こころは繰り返すことで学ぶんです。だからこの能力を大事にしなくちゃいけないんです。

 

それを悪用して、「オオナマシアイー!」と唱えなさい、そうすれば商売繁盛するぞ、と言われてやってみたら、微妙に商売繁盛するかもしれませんよ。その人がその呪文を唱えるとき、こころは「商売繁盛、商売繁盛、商売繁盛……」でしょう? すると微妙に、自分は商売繁盛するんだよと言う自信がついてしまいます。だから、自信がある人が品物を売れば売れますよ。

「これはどうでしょうかねぇ。もしかするといいんじゃないでしょうか」と売っても、だれも買いませんよ。

その人の思い込みで本気で「これはいい商品ですよ」と言われちゃうと買っちゃいますね。

騙してやろうといういう場合はあまり売れないんですよ。

 

日本では騙しのテクニックがいろいろとありますね。新興宗教の場合はマニュアルを作るんですね。しゃべる順番とか。いかに人のこころを悪用するのかということですね。

 

話している本人が本気で言っている場合は、聞いているほうも「ちょっとやばいな」と思っちゃいますね。それで話を聞いてしまいます。

 

それでブッダは、こころのこの法則を発見して、そこに道徳を入れて、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じなさいと、「一切は無常である」と、「何一つも持っていけませんよ」「体は美しいものでなく、汚いものだ」と念じなさいよと言ったんですね。なんでかというと、それで、煩悩が消えちゃうんです。こころがきれいになります。

ブッダは、念じるものはハッキリと決められています。

 ⇒次回は…

なんで人は念じるのか?(7)慈しみを込めて

 

関西定例冥想会 2011.05.04

http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1387645.htmlよりメモしました。 

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