(なんで人は念じるのか?(6)ブッダが勧めた「念じることば」から続きます)
それでブッダは、こころのこの法則を発見して、そこに道徳を入れて、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じなさいと、「一切は無常である」と、「何一つも持っていけませんよ」「体は美しいものでなく、汚いものだ」と念じなさいよと言ったんですね。
なんでかというと、それで、煩悩が消えちゃうんです。こころがきれいになります。念じるものはハッキリと決められています。
経典をあげるということを普通はします。それは儀式じゃなくて、昔はね、しょっちゅう読み上げているんです。お釈迦様の言葉だから、すごく理性に富んだ文章でしょう。二、三回読むと、自分が微妙に変わってくるんです。
人を信頼するならば、完全にこころが清らかな人を信頼しなさい。得体が知れない人を信仰しちゃうと、どうなるかわからないんですね。お釈迦様は、人間が本当にこころ清らかにしてあげたいだけで、説かれていますから、それを読むだけでなんかこころが微妙に変わってしまいます。
しかし仏教の世界で、いきなりアチコチで呪文工場が出来上がってしまう。呪文の決まりは、呪文の文章に意味がないことなんです。「オーム」という言葉は、「これからしゃべりますのでみんな聞いてください」ということで意味がないんです。皆様も何かやろうとするときは、「せーの」と言うでしょう。あの言葉は信号です。それが「オーム」です。
(さまざまな呪文について。省略)
昔は意味のある言葉を念じていたんですよ。
日本の学校なんか見ると、気持ち悪いほどうるさいでしょう? 元気で明るく、とか。看板ばっかしでしょう。誰も読んでいないのに、わたしだけ読んで馬鹿ですね。あんなの読んで気持ち悪くなっている。
明るい将来を目指して頑張りましょう、とか。
そうやって文句を言いますけど、意味のあるスローガンでしょう、一応。だから子供たちがはしゃいでいる教室の黒板の上に、意味のあるスローガンを張っておいた方が、どうしても子供たちがチラチラと目に入りますからね。
たとえばね、わたしならもっと効き目のある言葉に入れ替えます。「思いやりのある子は頭がいい」とかね。そうやっておくと、子供がそうかなぁとやってみたりするでしょう。思いやりのある方が頭がいいことより上なんです。
それで子供たちが思いやりを持つように何とかしようと頑張るでしょう。それで頭もよくなります。
そういうふうに、よく気をつけて、人類のことを慈しんでスローガンを作らなくちゃいけないんです。
反社会的スローガンとかね、攻撃的な、~叩き潰せ、というのも気をつけたほうがいいし、仏教の世界がやった悪いことは、意味のあるスローガンにまるっきり意味のない「ギャーテー、ギャーテー」などの言葉をいれちゃったことです。
今のチベット仏教なら、阿羅漢になりたければこの呪文だ、独覚ブッダになりたければこの呪文、と全部あります。いい結婚相手を見つけたければ、チベットのラマさんにね、十万円くらいあれば、「あなたにこの呪文を授けてあげます」と。日本人だったら、もっと多い額を支払って、位(くらい)とか呪文とかをいただいてきますよ。
仏教は、絶対呪文は反対なんです。覚えておいてください。
しかし、こころの決まりは決まりです。こころは繰り返すことで変わるんです。こころを変えたければ繰り返すしかありません。
だから、わたしたちはこのことにものすごく気をつけなくてはいけない。原発を扱うような感じなんです。相当気をつけているならば、一応、電気は作ってくれます。「俺たちの技術は世界一だ」とうぬぼれたら終わり。あれは怠けが言う話です。原発もただの機械でしょう。どこで壊れるかわからない。愚か者は自慢しますよ。「世界一だ」と。
それを言えるのはブッダだけです。
⇒続きは…
関西定例冥想会 2011.05.04
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1387645.htmlよりメモしました。
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