(なんで人は念じるのか?(7)慈しみを込めて から続きます)
いくら機械の性能に気をつけても、金属は時間とともに疲労するんですよ。高熱の水が流れると、熱っていうのは素粒子でエネルギーだから、金属の原子を通っていくたびに原子の運動が変わるんです。科学者ならそこをチェックして、耐久年数を厳しく管理する。
呪文は断言禁止ですが、こころは、繰り返し、繰り返し、物事を学ばなきゃ学べないこと。繰り返しということは、原発と比較しても、徹底的に気をつけて物事を扱わなくちゃいけない、ということになるんです。何か起きたら戻れない、という大変な状態があります。
ブッダの教えを学ぶ人はものすごく得をしていますよ。全部答えが出ているんだから。困らなくてもいいんです。「わたしは何を念じればいいんだ?」と言ったら、「はい、これ」とちゃんと用意されている。どうしてこれを念じるのか? と言えば、ちゃんと答えはある。それってものすごい楽なんです。
お釈迦様が「妄想するなよ」と言ったら、わたしは「はい、わかりました」と言って終わり。
どうしても妄想する必要があったら、「妄想している」とハッキリと自覚して妄想する。だからって妄想することが正しいんじゃなくて、癖だから、気をつけてやりますと。
お釈迦様が「データがないものは捨てなさい」と言ったら、わたしは「はい、わかりました」と。
これがどれほど楽かと言うと、「そういわれても、そういわれても」とやらなくてもいいんです。
「世界人類が平和でありますように」という立て看板がありますね。言葉自体は悪くないんですね。だからみんながあまり、その立て看板には反対しないんですね。昔、スリランカ大使館にも一つ挿してあったんですね。
悪くはないんだけど、そんなに完璧な言葉でもないんです。なんで差別するんですかね? 「人類が」でなくて「生きとし生けるものが」と書いたら? そこに何か差別が入っていますか? 何か訂正が必要ですか?
だから楽ですよ、ブッダの言葉を知っていると。
人間がすごいと思っていることに、わたしは簡単にケチつけちゃうでしょう。どこからそのアイディアが出るかと言うと、それもブッダの受け売りなんです。全部しゃべっていることはお釈迦様の受け売りなんです。
そういうことで、何を念じるのか、ということにものすごく気をつけなくてはいけない。普通の人間にはそれって大変ですよ。よくわからないでしょう、世の中の何が正しくて何が間違っているのか。何を学ぶべきなのか。それをどこまで気をつければいいんですかね? やりきれないんですよ。
そういうわけで、ブッダが「こうしたらどうでしょうか」と。「どうしても納得いかなければ自分で調べてください」「これには誰にも反論できませんよ」と自信たっぷりにお釈迦様が語ったのはわけがあるんです。
これは、皆様が学んだ方がいいポイントなんです。皆様の頭がよくなると思います。皆様に自分の人生が自己管理できると思います。歳は気にしないでください。歳っていうのは体が歳をとるんであってね、こころは歳を取らんですよ。
なぜなら、こころに歳を取る時間がないんです。瞬間に消えていく。こころがあらわれたらもう消えていく。あまりにも早く死にますから、こころは歳を取らないんです。生まれたら消えちゃって。
肉体はそうじゃないんです。細胞一個を取ってみても三か月間くらい持ちこたえますからね。だから歳取る時間は十分あります。そういうわけで、皆様方はね、生まれてから年齢は重ねるかもしれませんけど、こころはいつでも生まれたばっかりのピチピチのこころなんです。
だから、そこをどんどんと訓練して、繰り返して、よいこころになるようにとしてほしいんです。
間に合わない、というのは、こころを育てることについては、ないんです。
そういうことで、頑張ってください。
(終)
関西定例冥想会 2011.05.04
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1387645.htmlよりメモしました。
「なんで人は念じるのか?」シリーズ全8回
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