(本当に「幸せには定義がない」のですか?(1)涅槃は幸福と同義語 から続きます)
それから、また仏教の話で、人間と言うのは止まってはあかん。
何もやる気がなくなったというのはよくない。ときどきわたしにもそれが出ます。「なんかやる気がないんだ」と。
でも、これが危険や、と。何にもやらないでいるのはどういうことかい、と。時間が無くなっているんだかね。自分は死にかけているんだからね。その前に、何か人々のために頑張ってでもやらなくちゃあかんじゃないか、とおもっちゃう。すぐに。あの気持では居続けないんです。
結構その気持ちにはなるんです、「なにもやりたくない」と。
なるんだけど、すぐにその気持ちは変えちゃうんですね。
無理にでも、何かやらなくちゃいけないんだと。
その場合は、自分の短い人生の時間が、何とか人の役に立つことに使っているのではないかと。それ自体は苦しい。朝三時まで本を訂正するということは決して気持ちいい作業ではないんです。
そこで、三時でやめましょうと思うと、あと二十ページしか残ってないんですね。これをまたほかの日にやるのも大変でしょう。それで三時半までやっちゃいます。この作業は苦しんですけど、本一冊分は出来上がりました。
本を出版する会社にとっても、本が仕上がれば安心するだろうと。それを読む人々も何か理解するだろうと。だから自分の苦しい時間が、役に立ちましたというところで、その時間生きていてよかったんじゃない、ということになるんです。
クタクタ疲れて家に戻っても、「なんかよくやった」という気分になっちゃって、また休まない。また何かやりだすんです。
そういうふうに誰でも、自分を成長させるために頑張っているんですね。
これは楽じゃないんだけど、うまくいったというところで、何かいい気分がありますね。
そういう気分を毎日作れます。毎日わたしたちは努力している。毎日、わずかでも成長している。
これは、遅いんだけど、着々と進んでいるんだと、幸せを感じます。
(本当に「幸せには定義がない」のですか?(3)スズメバチの巣に手を突っ込む に続きます)
関西定例冥想会 2011.09.17
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1574082.htmlよりメモしました。
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