(本当に「幸せには定義がない」のですか?(2)なにもやる気がないとき
から続きます)
たとえば、五年間のわたしと今のわたしを考えてみれば、とすると、今のわたしはちょっとマシじゃない? と感じたら、それは幸せなんですね。
自分が成長したということですからね。
なでしこジャパンとか、厳しい練習をしてなんとか試合に勝っちゃう。勝った瞬間で、「やりました。日本の皆様の期待に応えました」という充実感が湧くでしょう。
彼女たちの人生は楽ではないんですね。楽ではないけど、その中で充実感を感じる。
この充実感が幸せでしょう。それが無常なものであるか、無常なものではないかと差なんですね。
今感じている充実感は、それに頑張らないと消えてしまいます。
しかし解脱ということは、究極的な幸福、幸せなんですね。
だから、モノから幸せを作るっていうことは、もうアウト。
おいしいご飯を食べられるから幸せだということになると、アウト。金が入れば幸せだとかね。そういう人々をずうっと見てきた。文句ばかりで、あれがあれば、これがあればうまくいくのにとかね。何かいい仕事があれば、家族を養えて問題がないのに、とかね。
それでわたしがいろいろとアドバイスして仕事が見つかったり商売ができるようになったりして、それから幸せかと言ったら、それはないんですね。結局は。
今も一人、そういうケースで悩んでいるんでよ。いままで羽振りが良かった人が、全部なくなっちゃって、わたしもいろいろ電話を受けているんですね。
昨日は別の人から電話があって、「あいつを助けてあげるべきかどうか、まだ決めてないんだよ。仕事があったら幸せだと言っていたけれど、仕事があっても結局はそうでもない」と。常に明るく頑張る人は、やっぱり幸せになるんです。問題があっても、何とかして解決して幸せになります。
たとえば、大津波で、大地震でいろいろなものがすごく破壊されても、それだから不幸、と言うのはおかしいんです。
地震で、津波ですべてなくなっても、あなたたちは幸せでいるべきだというのがわたしのスタンスなんです。家が幸せを持って行かないんだと。これはこころの見方なんですね。
どうして、「消えるものは消えちゃった。だから、何?」という感覚でいないんですか?
今も人生は大変ですけど、着々と頑張りましょうと。すべてなくなってゼロからスタートすることも本当は幸せなんですよ。
消えたものを比較して、なんでわざわざと自分でスズメバチの巣に手を入れるんですかね?
スズメバチの巣だと分かったら放っておいて、別なところへ行けばいいでしょう。
「スズメバチの巣だ。もう大変だ。生きていけない」と自分が不幸を作っているんです。
逆にあなたがスズメバチの巣に手を突っ込むまでは幸せでしたか? と聞いても、幸せだったという実感はないんですね。
「かつて幸せだった」という考え方はおかしいんです。
幸せというのは今感じるものなんですね。それがおっしゃるとおりに、無常ですからね。
だから常に精進するということは、欠かせない条件なんです。
(本当に「幸せには定義がない」のですか?(4)長老が何もやりたくない日にすること に続きます)
関西定例冥想会 2011.09.17
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1574082.htmlよりメモしました。
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