から続きます)
そういうわけで、わたしたちは、自分の行為に責任を持つべき……というより、責任を放棄できません。
必ずついてくるんだと。行為には結果がついてくる。
それを、怒りを込めてやった、となればなおさら罪は重いんです。
「若かったから、欲に駆られてやったんだよ」というのはなおさら罪は重いんです。
ですから、悪いと分かっていて、「やろうかな、やめようかな」とためらってやる場合は罪が少ないんです。わたしたちは逆に思っちゃう。
「分からなかったんだから。若者が欲に駆られてやったんだから」というのは人間の感情です。
それでわれわれは、善悪判断がわかっている人が、社会から認めれている人がかすかな罪を犯したら大げさに扱う。「みんなを裏切りました」「上司たるものがなんでそんなことをやる」とかね。「やっぱり、やらないほうがいいけど」とためらいながらやるときは、やりたいというパワーが少ないんです。
「それはやってはダメだと知らなかった」と欲などに駆られてやった場合は、罪が重いんです。
罪があると知っているくせにやっている場合は、比較的に罪が軽いんです。
これは一般に理解しにくいところです。
具体的に言えば、皆様方が生命を殺す。わたしも何か生命を殺す。わたしのほうが残念ですけど、罪が少ないんです。徹底的に知っているから、殺してはならんと。
単純な例で考えましょうね。
皆様の体に蚊が止まる。それでパチッとやっちゃいます。全然罪の意識も何もなく、反応で、反動でやってしまいます。
わたしの体にも蚊が止まる。わたしもパチッとやる。でもわたしが、「これも生命だ。殺してはあかんことでした」と知った上でやるんだから、「殺してやりたい」という衝動が弱いんです。それでも判断を間違って、感情に負けて、怒りに負けて殺したんですね。
殺生なんですけど、二人が蚊を殺したんですね。なんのことなく反動でパチッとやっている人のほうが罪が重いんです。しかし、世間は逆にとらえます。「あなた坊主でしょう。殺生は良くないと、ずーっと教えてられていたでしょう。慈悲の実践をしなくちゃいけないと教えられているでしょう。なんてけしからん坊主だ」ということになります。
これは殺生の罪です。
別なところでは別な罪が加算されますよ。だから簡単にどちらの罪が総合して多いかと判断できません。
たとえば、わたしがやったことで皆様に悪い例になったならば、「坊主も蚊を殺しているんだから」と一般人がそれを知ると、無茶苦茶、蚊を殺すんです。
だから、わたしの判断間違えは、結果として人々を悪い方へ導いたことになります。その罪がわたしに来ます。ですから、ああいうふうに言ってもね、わたしのほうが殺生の罪が軽いと言っても、その一個の罪は軽いんですが、付随してくる罪が別にあります。
そういうことだから、一般凡人には、「あなたの罪は軽い、重い」というふうには判断できません。
こころのことだから、それはなかなか一般人には判断できません。
(水を飲むことも業(4)指一本動かすことも自己責任 に続きます)
スマナサーラ長老・関西定例冥想会 2011.10.02「指一本動かすことも自己責任」
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1577072.html よりメモしました。
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