(罪の数え方(3)指一本動かすことも自己責任 から続きます)
今日学ぶべきところは、「精神鑑定はない」ということです。
右も左も区別できないほど頭がおかしくなっても、罪は罪です。
その場合は残念ですけど、罪が重いんです。なぜならば、やりたいという意欲に何の躊躇もないんです。何の遠慮もない。だから精神的にいかれている人が人を殺す場合と、正常な人が人を殺す場合は、やりたいという衝動が違います。精神的にいかれている人は、やりたいという衝動だけ。正常な人は、「やっぱりやばい」と同時に思っている。自分の身を守ることも考えなくちゃといろいろやっています。
だから「殺したい」という衝動が比較的弱い。しかし、その人は罪から逃れるためにいろいろと計画を立てたので、その一個一個が別の罪になります。
精神的にいかれた人は、逃げることも何も考えていない。強烈な衝動で躊躇なく人を殺してしまう。そこですごく重い罪になる。
一方で正常な人は、殺人計画と逃亡計画の両方の罪がプラスされます。しかし、罪の種類が違います。
そういうことで、各生命に「意思」というものがありまして、パーリ語でCetanā (チェータナー)といいます。この意思が常に働いています。
ご飯を食べましょう、お茶を飲みましょう、のどが乾いたらウーロン茶にするか水にするか。自分の意志で決めます。意思で行う行為はすべて業と言います。結果が出ます。
行為は結果が出ないということはあり得ない。科学的にもおかしいことです。鉄砲を撃ったんだけど、何も結果がなかったということはあり得ません。
ですから、意思の行為はすべて結果が出ます。
ご飯食べて水を飲んだからって、地獄に堕ちるわけじゃないし天国に行くわけでもないが、その場で結果が出ます。結果が出ないわけではないんです。
水を飲みたいという意思が生まれた。それで水を飲みました。これも業です。その業の結果はすぐに受けます。
それで話は終わり。
「あなたは業を犯したんだから地獄に堕ちますよ」というものではない。
けれど、水を飲むことが業でないと思ったら勘違いです。
水を飲むことも業なんです。それが来世にはいかないということです。
来世にはいかないが、結果は二・三時間後に結果が出て終わり。それからまたのどが渇きます。
しかし一部の業の結果は、死後まで結果を出す場合はあります。それだけ選んで、善と悪で分けています。善行為と悪行為と、どちらにも入らない行為という三つはありません。アビダンマを見てもないんです。
水を飲んだり、座ったりすることも行為ですけど、あれは善で悪でもないでしょう、見てみれば。しかし仏教はそう判断していません。行為は善と悪に分けています。真っ二つに。
阿羅漢になった人々の行為は別に分けています。行為のみと。
ですから、仏教ではすべての行為に結果が出ますということにしています。
その結果はやっぱりよいか悪いかと決められますよ。たとえば、のどが渇いたから灯油を飲む、というなら、結果は決まって来るでしょう。それは間違った行為です。悪行為でしょう。その悪行為の結果はその場で受けます。のどが渇いたところで水を飲む。これでのどの渇きがなくなる。それは自分が望んだ結果でしょう。それでOKです。よい行為・正しい行為です。
それをよく覚えておいてください。
呼吸することも自己責任であるということで、責任逃れはできません。
(Free will(自由意思)はあるのか?(5)指一本動かすことも自己責任 に続きます)
スマナサーラ長老・関西定例冥想会 2011.10.02「指一本動かすことも自己責任」
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1577072.html よりメモしました。
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