ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

仏教は戒定慧の三学です(7)指一本動かすことも自己責任

will(意思)はあるけどfreeはない(6)指一本動かすことも自己責任 から続きます)

意思があるんだけど、意思は自由じゃないんです。

 

そこでわれわれには、貪瞋痴という煩悩が入ってくると、条件が付けられています。

自分の判断で悪いことばっかりします。

 

外からの影響を受けて貪瞋痴を制御する。不貪・不瞋・不痴の気持ちを作ろうと頑張ってみると、それも条件なんです。

その条件で善いことをする。

 

ですから、われわれは条件を付けられているんだから、教育を受けて訓練を受けて、この条件を変えて新しい条件を作らなければいけない。

それで道徳ということが成り立ちます。

 

因果法則があるんだから。神がいるからじゃないんです。「神がいるから」とすると、矛盾だらけで道徳が成り立たない。

殺すなかれと言いながら、人間が神を侮辱するならばどうしますか? というと、殺すべきだと言っています。これは道徳ではありません。

 

因果法則を知っている人の行為はレベルが高くなります。

因果法則を知らない人はたまたまいいことをしても、それなりに結果にはなりますが大果にはなりません。

 

それだけです、話は。

 

仏教は、学(がく)、学ぶという言葉をものすごく大事にしていますよ。

仏教は三学(さんがく)ですからね。戒定慧(かいじょうえ)という。*1

 

そのままがいいとは思っていません。あるいは輪廻転生しても、地獄に・畜生界に堕ちたくないとしても、これは条件ですからね。

 

猫って面白いなと思って、一回猫になってみたいなと猫になってみたらどうなるんですかね?

猫として生まれたら、生きるために殺生しかできなくなってしまう。言い訳も成り立たない。ですから解脱しないならば輪廻転生するでしょう。だったら、いい条件のところに生まれるようにと仏教徒は期待して、その目的で善行為をします。

 

人間界とかね。テーラワーダ文化の場合は、人間に生まれるときは三宝に帰依するところに生まれますようにと請願します。アメリカの金持ちに生まれたいとは思いません。サウジアラビアの王家に生まれたいと思いません。三宝に帰依する親のところに生まれたいと。人間になるならば。

 

そういうふうに請願をプログラムしていますよ。だから、ただ欲張って、商売繁盛・家内安全・学業成就というのはね、そういうのはないわけではないんだけど、うかつに請願しません。請願を精密に計画立てます。なぜかと言うと、すべて因果法則だから。因果法則というのはものすごく複雑なものなんです。自由でありながら自由でないというね。

 

だから結果を変えたければ条件を変えるしかない。

それは解脱まで同じことです。条件を変えて、変えて行きます。愛着で執着で輪廻転生するならば、では、愛着・執着をなくそうとする。それをなくすために条件が必要ならばそれもやります。集中力が必要ならばそれもやります。

道徳が必要ですか? あ、それならそれもやりますと、条件を変えていって、解脱まで行きます。

最終回(8)指一本動かすことも自己責任 に続きます)

スマナサーラ長老・関西定例冥想会 2011.10.02「指一本動かすことも自己責任」

http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1577072.html よりメモしました。

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*1:

4
ティッサー(人名)よ、〔三つの〕学び(戒・定・慧の三学)によって、学べ。諸々の束縛が、おまえを超え行くことがあってはならない。一切の束縛について束縛から離れた者となり、煩悩(漏)なき者として、世を歩め。

「 Therīgāthā(テーリーガーター)一なるものの集まり」より

http://www.j-theravada.net/sakhi/therii-g-1.html

 

仏教の伝統的な修行論の枠組みに従い、この会を戒・定・慧の三部に分け、礼拝文と戒文を唱え、慈悲の瞑想を行い、最後に長老や高僧のご説法を賜ります。

http://www.j-theravada.net/vpress/syakusone.html

 

戒学(かいがく)戒律のことで、「戒禁」(かいごん)ともいい、身口意(しんくい)の三悪(さんまく)を止め善を修すること。律蔵に相当。定学(じょうがく)禅定を修めることで、心の散乱を防ぎ安静にするための方法を修すること。経蔵に相当。慧学(えがく)智慧を修めることで、煩悩の惑を破って、すべての事柄の真実の姿を見極めること。論蔵に相当。

この三学は、三蔵に相当しており、上記のとおりである。

三学 - Wikipedia