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Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

生きることは感覚だ|パーリ経典講義「相応部六処篇受相応」(2)

生きることは苦?|パーリ経典講義「相応部六処篇受相応」(1)から続きます)

わたしは現代思考を使って、生きることは苦であると、一応説明するんですね。何でわれわれは呼吸しているのかと。頭でっかちの答えもありまして、そうでない答えもあります。頭でっかちの答えというのは、「酸素を取り入れなきゃあかんだろう。それは科学的な真理だろう」と。これはおかしな答えなんですね。生物学者が、細胞が酸素を取り入れて二酸化炭素を出すと発見しましたけど、それを知って呼吸する人というのは、生物学者さえもいません。例えば、最初に酸素だろうと発見した人、それを研究した人、無神論者で有名な科学者でドーキンスさん、などもいるでしょう。

 

じゃあ、ドーキンスさんが呼吸しているのは酸素を取り入れたいからなんですかね? 科学技術と仏教の真理っていうのは、ごちゃまぜにならないんですね。科学者が発見する事実は実感がないんですね。だからそれを「頭でっかちな答え」とわたしは言うんですね。

 

生命が現れたその瞬間から、呼吸するんですよ。誰一人も「酸素を取り入れなくちゃいけいない」と考えて呼吸することは、一回もないと思いますよ。仏教が興味あるのは実際のことなんですね。実際に生きているのはどういうことかとみると、呼吸しなかったら最悪なんですよ。極限に苦しみが生まれてくるんです。それは、吸って止めてみても同じ苦しみを感じるし、吐いて止めても苦しみを感じる。

 

もし人が酸素を吸うために呼吸しているならば、川でおぼれたら水を吸わなきゃいいでしょう。それなら、命は助かるでしょう。泳げない人は、すぐ水を吸い込んじゃうんです。吸い込んだら肺が水でいっぱいになってしまいますよ。ということは、誰も酸素を取り入れたくて呼吸しているわけじゃない。吸わなきゃ苦しいんです。吐かなきゃ苦しいんです。たとえ水の中に入っても、吸っていしまいます。「これは水だから吸うもんじゃないよ。いくら苦しくても水を吸い込まずに頑張らなくちゃ」とは思わないんです。頭が働かないんです。水に落ちたとたん、極限の苦しみがあって、それで吸ってしまうんです。それで肺一杯に水が入ってしまいます。

 

だから、われわれはどこででも吸い込んでしまいますよ。酸素を吸いたいというならば、誰かが部屋に毒ガスを入れたら「これは酸素じゃないから、吸うのをやめよう」とする? しないでしょう。例えば、ガスでも不完全燃焼するとガス漏れになったりする。そのとき吸わなきゃいいでしょう。でも吸っちゃいます。

 

わたしたちにとっては、空気の成分がなんであろうと吸ってしまう。呼吸しなかったら極限に苦しみます。たとえ毒ガスであっても吸ってしまいます。これはどうにもならんです。他の人がその人を外に連れ出さない限り、その人は倒れるまで毒ガスを吸ってしまうんです。だから、毒ガスを吸う苦しみよりは、呼吸しないことによる苦しみのほうが多いんです。これはもう自然法則で、もし毒ガスを吸ったとたん、ものすごい苦しみが生まれるならば、鼻をつまむんですね。

 

苦しみの比較をしちゃうんです、自動的に、わたしたちは。やっぱり吸わなくちゃ、ということになっしまいます。

そういうことで、呼吸することも苦しみがある。ご飯食べることも、苦がそれをやらせているんですね。よくよく見ると、感覚が苦であって、苦がすべてやらせているんです。座っていると足が痛くなる。それは感覚でしょう。それで、足を崩したりします。

 

ときどき、ドンドンと嫌な気分になって来る。退屈になって来る。そうすると、誰かとしゃべるしゃべる相手がいなかったら一人でもしゃべっているとかね。われわれがしゃべることも、苦があって、そういうことをするんですね。

 

微妙に体を動かす場合も、すべてこの感覚で管理しているんです。どんな微妙な作業でも、体で、感覚ですべて管理している。われわれは、眼耳鼻舌の五か所に感覚を分けていますけど、微妙な作業は生まれつき目が見えない人にもできます。目が見えないからと言って、感覚がなくなったわけじゃないでしょう。

 

目が見えない人はその分のエネルギーを、別な分野に分けて、耳が素晴らしい人もいるし、指先の感覚がすごく素晴らしい人もいる。わたしも点字を、読めないんだけど、目を閉じて触ったことがありますが、よくわからないんですね。デコボコは感じるんだけど、これでどうやって読めるのか? わたしの指の感覚は鈍くなっているんですね。そういうことも感覚でやっています。

 

感覚をどのように管理できるのかということによって、人の能力は大きくなります。例えば職人は、どうやって一流になるのか? これは感覚を育てているんです。それには結構時間がかかる。生け花はシンプルでしょう。ただ花を刺すだけなんですが、できないんです。これがなんでできないんですかね? 先生について何年も学ぶのかというと、感覚を育てるためです。

 

生きることというのは、感覚があることに限っています。命・魂・霊魂、何を言っても、感覚以外何もないんです。仏教の考えは、科学と反対ではありません。科学者は感覚機能についてそんなに研究していないだけです。だから彼らも「うーん、ちょっとわからないな」ということで、「こんな方向で考えればどうですか?」という仮説を提供すれば、真理を発見するだろうと思います。

 

物質というのは、究極のところまで調べてありますが、生命になってくると、科学者もよくわからないんですね。科学者は「アクシデント」という言葉を使っていて、たまたま生命があらわれただけで、神がそう設定したわけじゃないんだと堂々と言っています。

 

われわれは何をやっても感覚でやっているんです。これはとても大事なポイントなんですね。やっていることはすべて感覚でやっています。感覚で何かやろうとすると、「やって終わった」ことも感覚なんですね。例えば、紙一枚を破るとする。破りましょうということも感覚なんですね。頭の中に、紙を破った経験もあるし、それも感覚です。目の前に破れていない紙があるし。それで感覚の変化が起こるんですね。それで「これを破らなくちゃ」という気持ちになります。それも感覚。それを手に取って、どんな程度で破ればいいか、何回破ればいいかとか、そこらへんをザーッと判断して、破りました、ということになります。すべて感覚の変化が起きているだけのこと。

 

人間が、一切の生命が、生きているということでやっているすべての行為は、感覚変化で終わっちゃうんです。そういうふうに考えると、世の中の秘密っているのは全部なくなって、ものすごいシンプルになってくるんです。

 

他になにかあるのか? 他に何かありますよというのも、それも感覚でしょう? それで感覚次元は乗り越えられないし、それも感覚に全部入っているんです。たわしがあるんだぞというのも自分の感覚でしょう。なんだぞと言ったらそれも自分の感覚であって気持ちで会って。

 

そこで、感覚は現実を知っているのかという問題もあります。必ず、ほとんど、現実を知ろうとしないんですね。その秘密はどこにあるのか? なぜ感覚は間違ったことばかり知っているのか? というと、この問題が出てくるんですね。感覚が認めていないだけで、苦しみなんですね。苦しみの感覚は「嫌だ」とまた感覚が生まれるんですね。現実的に、「これが嫌です」と。だからわれわれは、頭が自動的に苦しみを避けるようにプログラムしていて、都合の悪いことは聞かないことにする。やらないことにする。自分が、迷信で、原始時代の思考で、石器時代の思考で、神に守られているんだとか、神の恵みでありがたく俺は生きているんだとかね。ああいうふうに、妄想というか、麻薬中毒の世界を作っていますね。それで十分だと、それ以外の話は聞きません、というのも苦しみからの逃避なんですね。

 

苦しみから逃避するため、逃げるために、妄想概念で新たな感覚を作る。だから、「永遠の天国があるんだ」と他宗教ではいいますけど、天国の説明はないんです。地獄の説明は派手にだらだらとあるんですね。なんだこれはと。有名なダンテの作品もあります。相当頭がおかしかったでしょうね。詩人ですから、頭がおかしい方がすごく便利なんです。頭がおかしい人が迷惑なのは、宗教を作るときです。頭がおかしい人は詩人でいいんです。普通の人が考えようとしないことも言っちゃいますからね。頭がおかしくなったら詩人になればいいのに、そのほうが人類のためになりますけど。ひどいことに、宗教を作った人と言えば、みんな精神的にかなり問題がある。治療不可能なところまで問題を起している。

 

ダンテに天国のことも言ってほしいんだけど、天国を語るのは迫力がないんですね。地獄の説明になってくると、どんな宗教でもかなり派手に書きますね。イメージを膨らませることができます。なんで? 毎日の経験だから、苦しみが。実感だから。天国の楽というのはひとかけらも実感がないから、イメージを膨らませようとしてもできないんです。

 

天国の話を読んでみると、われわれの日常生活の中の、欲のイメージだけなんです。よくみると、やばいんですね。死なない世界とか、イエズスがもうすぐきますからね。二千年間、彼のキングダムを作るんですね。二千年間は人が病気になりませんし死にません、と。それを聞いてばかは、「やっぱりありがたいな」と思うんですね。

正義の一かけらもないイエズスが、自分を信仰しないものは地獄に落として、王国を作るんだと。なんで二千年ですかね。作ったとしても二千年だけですからね。

 

世界はそんなのを信仰してしがみついていますけど。だから、現実的には、われわれは苦しみを知っているんですね。それで、脅迫感はよくわかります。脅しなんかはよくわかります。ご褒美よりは脅しにすごく実行力があるんです。会社で仕事をする人々よりも、団結があって真面目に頑張るのはマフィアの人々なんですね。日本でも、まじめに頑張っているのはやくざです。会社はご褒美主義でしょう。社員になったら、お給料やあれこれ手当てが入っているでしょう。退職金ももらうでしょう。ご褒美ばっかりなんですね。

 

なのに、会社でキチンと団結して、というのはないんです。できれば横領して、できれば不正したいという、「会社を壊したい」ということでしょう。どれくらいそれで倒産しているんですかね? やくざの組織がそうやって潰れたことがあるかというと、ありませんよ。なんでですかね? あれは脅しの世界だから、給料もらうよりは脅しのほうが現実的なんです。やくざの子分たちは大した金をもらってないんです。ラーメンなんか食って生活しているんです。しかし、しっかり仕事はする。贅沢していないんです。一般人はかなり贅沢していますけど。しかし、できれば会社を壊そうとします。

 

脅しがあったら、そういうことはしないんです。日本の警察も、あんなに腐っている組織ですけど、内部告発はしません。ときどき耐えきれなくて不祥事が出てきますけど、自分たちでサッサと隠しちゃうんですね。警察組織は正しくなければいけないのにそうならないのかというと、そこに脅しが働いています。だから、人間を管理したければ脅すしかないんですね。

 

なんでそれが可能なのかというと、苦しみは実感だからです。それを認めないのが人間であって、仏教は「現実だから認めたらどうですか」と言っているだけ。キリスト教の方々も、地球が丸いのは認めません、人間がサルから進化してきたことも認めません、と。いくら科学情報が現れても、「認めません」と言えばそれで話は終わりですからね。苦しみがあるのに、「認めません」というのが人間がとっている態度です。

 

そこで、わたしが冥想のときにする説明は、「生きているものは動いている。動きは感覚があるから動いている。でなきゃ動きません。そこに苦が働いている」ということです。なんで足を崩したのか、なんで水を飲んだのか、ということは全部動きでしょう。やっぱり苦があったからなんです。感覚を変えたかったんです。今現在の感覚が嫌で、そこを変化したかったんです。それで一口水を飲んだんです。なんでほっぺたを掻いたんですか、といえば、そこに感覚があったんです。それを変えたかったんです。掻くと感覚が変わる。

 

感覚がなくなっていくと、とてつもなく怖くなってしまいます。だから生きることが感覚なんですね。たとえば、突然、下半身が全部感覚がなくなったら? 手足の指が感覚なくなったら? どれくらい怖くなると思いますかね? 医学的には、それは極限に危険な兆候なんです。末端の感覚がなくなると。

 

本当は感覚がなくなると楽なんです。だって苦がなくなりましたから。でも怖いんです。突然足の感覚がなくなっちゃうと、ものすごく怖くなる。立てませんし、歩けませんしね。足があるという感覚も消えてしまいますから。感覚がなくなった時点で、その部品が消えたような気分になるんです。本当は楽なんです。苦しみが減ったような気分になりますから。しかし、わたしたちはすごく怖くなります。

 

だから、生きるということは感覚がだということになってきます。そこで感覚が消えたということは、死の恐怖がそこで生まれてくるんです。それでお釈迦様がおっしゃった言葉がございまして、わたしがそこをちょっと、レベルを下げるというか、間違っていますけど、「感覚が苦である」と、わたしは言うんですけど、お釈迦様はそういうふうには仰ってないんです。この経典は、お釈迦様がどのように教えているのか、ということです。わたしは長い間同じように教えていますが、いつでもこの経典の文章が頭の中にずっとありましたけど。「微妙に違うな」とわかりますけど、しゃべっている間は。でも、これを説明できなくてね、難しくて、ややこしくて。

 

今から経典の中身を説明しますが、感覚が苦であるということは変わらないんです。

感覚は変わる|パーリ経典講義「相応部六処篇受相応」(3) に続きます)

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