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ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

無価値論|パーリ経典講義「相応部六処篇受相応」(4)

説法めも

感覚は変わる|パーリ経典講義「相応部六処篇受相応」(3)から続きます)

それでは、感覚は苦であるという経典に入ります。

 

ある比丘が、お釈迦様のところへいらっしゃって、お釈迦様に礼をして座りまして、お釈迦様にこういうことを報告しました。

「わたしは、一人で、隠れて、内緒で修行しているとき(長老注:出家は一人で生活するものですからね)、このような思考が生まれました」

「お釈迦様が三種類の感覚を説かれています。楽しい感覚・苦しい感覚・中間的な感覚、と。しかし、お釈迦様はこんなことを言われています。『感じることがあるならば、それは、苦以外何でもない』と。(直訳すると)苦に属する、と。」

 

これはお坊様が、「困ったな」という状態でしょう? お釈迦様がハッキリと感覚は三つだよと教えている。そうおっしゃりながら、感じるものは苦以外何でもないとも言っている。

 

「お釈迦様は、何を思って説かれたのでしょう?」

とお坊様がお釈迦様に質問する。それでお釈迦様が答えました。

「とてもいい質問です。確かにわたしは、楽・不楽・不苦不楽の三つの感覚を説きました。感じるものはすべて苦に属する、とも説きました。

それは比丘よ、すべての現象は無常だから、そこを示すために、そう説きました。」

 

いわゆる、無常を語っているんです。saṅkhāra(サンカ―ラ)は感覚でありながら、生きるポテンシャルになりますね。生きる泡だから。感覚が生きるエネルギーでもあります。生命力というのは感覚のことなんです。だからサンカ―ラなんですね。これが無常だから、そこを示すために「苦である」と言いました。

 

でも、なんかおかしくない?

無常に対して説かれたなら、「感じるものはすべて苦に属する」と言わないで、「無常である」と言えばいいでしょう。実際そう説かれたこともあります。

 

無常であること。感覚やすべての現象は、減っていく・退化する。エントロピーですね。すべてのものはエントロピーを持っています。

それから、老化すること。金属でも、金属疲労というものがありますね。それもエントロピーですね。エントロピーは一般的に言えばロスですね。ロスというと何がロスですかと聞かなくてはいけないから、エントロピーということにするんです。

 

感覚は執着に値しない。Virāga(ヴィラーガ)。「ああ、そうかい」という感じなんですね。たとえば、ピカピカしたガラスのようなものがちょっと見えたら、「ダイヤか」と思っちゃうんですね。お金持ちの人が光る石を身につけていて、それを見て「ダイヤかな」と思う。そう思った瞬間、「いいなぁ」と思っちゃう。もし、スワロフスキーなら、「ああ、なんだ」と思う。一千万円のものだと思ったのに、実は一万円だと分かると、そこにvirāgaが生まれたんですね。さらには、ガラスだと分かる。一万円が千円の価値のものになる。ガラスじゃなくてプラスチックだったら、今度は百円程度まで価値が落ちる。「あー、なーんだ」ということで終わっちゃうんです。そういうふうに、virāgaという言葉を覚えてください。

 

価値があると、執着が生まれるんですね。価値がない、ない、ない、……と分かるたびに、執着が消えて、virāgaの「どうったことはなかった。空騒ぎでした」ということになります。

virāgadhammataṃ(ヴィラーガ ダンマタン)を「厭離(おんり)」と訳すと、日常生活には関係がない、知識人の専門用語になるでしょう。そうは思わないでください。現実的に、気持ちで理解したほうがいいんですね。「ああ、そんなもんかい」という気持ちです。

 

すべての物事は、大したことがない、すぐ変わってしまうんだから、「ゼロ価値」になっちゃうんです。それがvirāgaです。

 

それから、nirodhadhammataṃ(ニローダ ダンマタン)。ニローダっていうのは、滅します、消えます、という意味です。どんな現象も消えます。これも宇宙法則なんですね。この宇宙がそのままあると思ったらすごい勘違い。一度でも一定したステディ状態でいたことはなり。これはあり得ないんです。物理学ではすべて無になると言っていますからね。

物理学では無から現象が現れると言っちゃいますけど、それは極論で、そこまで言うと邪見になります。

 

それから、vipariṇāmadhammataṃ(ヴィパニナーマ ダンマタン)。状況は変化するということ。ときどき「老化する」と言わずに「変化する」と言いますね。たとえば、買ってきた服の色があせると、老化すると言わずに変化すると言います。だから、日常経験でしゃべっている単語を使っています。

 

お釈迦様「そういうことを思って、わたしは感じるものはすべて苦に属するんだよ、と言いました。」

 

これはシンプルじゃなくて、かなり深い言葉になっちゃうんです。極限なペシミションじゃないんです。感じることが生きることであって、感じることが変化する・退化する・老化する・消えていしまう。それから、価値は見いだせない。すぐ消えますからね、価値をつけようがないんです。「今あなた、体がかゆいのは、どのくらい価値のあるかゆみですか?」と言っても、価値ってないでしょう。足の痛みも、次第に消える。感覚が変わる。そこに価値はないんですね。価値がないということがわかると、無執着のこころが生まれるんですね。

 

以前、「無価値論」という文章を書きましたからね。*1

わたしが自分で気に入っている本は、誰も興味ないんです。わたしは、いい加減でこんなのは出版するのも恥ずかしいというものは、結構人気があるんです。どうなっているんでしょうかね(笑)。わたしにしてみれば、「無価値論」と言う言葉だけでもすごくカッコいいんですね。

 

現象に対して「無価値」と発見すると、そこでvirāga(無執着)があらわれて、解脱というこころが生まれるんです。

 

それで経典は終わります。次のセクションは(皆様の)管轄外と言うことになります。

そこでいったんまとめて終わって、付属として、残り(次のセクション)も説明します。ちょっと、現在の皆様の能力範囲は超えていると思います。

感覚のエントロピー|パーリ経典講義「相応部六処篇受相応」(5)に続きます)

 

*この記事は、スマナサーラ長老によるパーリ経典講義「相応部六処篇2受相応2独坐品独坐経」http://gotami.j-theravada.net/2010/06/ustreamdhammacast.html

を聞いて書きました。

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