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ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

感覚のエントロピー|パーリ経典講義「相応部六処篇受相応」(5)

説法めも

無価値論|パーリ経典講義「相応部六処篇受相応」(4)から続きます)

それで経典は終わります。次のセクションは管轄外と言うことになります。

そこでいったんまとめて終わって、付属として、残り(次のセクション)も説明します。ちょっと、現在の皆様の能力範囲は超えていると思います。

 

生命は感覚があること。この感覚っていうのは、基本的には苦である、と。これが瞬間、瞬間変わる。生きることは感覚が変わることなんです。そこでわれわれは、意思で生きている場合もあるし、無意識で生きている場合もあります。しゃべることは、意思で行う行為。呼吸することは無意識で行う行為。食べることは意思で行う行為。食べたものを消化することは無意識的な行為。

 

意思で行う行為も、無意識で行う行為も、生きていなければ起こりません。生きているということは感覚なんですね。ということは、感覚がなければ起こりません。寝ているときも、食べたものを消化することは、感覚が行っているんです。だから、自我が成り立たないんです。自分がやっていることは全然ないでしょう。なんでご飯食べることやけんかすることで、自我だと言うんですかね。それはわずかな、氷山の一角の仕事でしょう。人としゃべったりけんかしたり、あれ欲しいこれ欲しいというのは、ほんのちょっとでしょう。他はずーっと自分の意志と関係なく生きているでしょう。それは感覚がやっているんです。

 

だから、感覚を発見する時点で、自我がないということがわかるでしょう。

ご飯を食べて夜寝て、朝起きるとお腹が空いているでしょう。自我がなかったでしょう、そのときは。しかし、死んだわけじゃないでしょう。ちゃんと感覚で、計算している。物理法則で起きていますよ。熱が高いところと低いものをつなげると、低いところに行くとかね。同じ働きでちゃんと計算して起きているんです。しかし、そこは感覚がその判断をするんです。

 

判断すると言っても、意識じゃないんですね。ただ、なんか、起こるだけ、法則として。感覚を意識すると、自分で感じるということになるだけ。しかし、意識してほしいと言いたい場合は、ちゃんと感じるんです。たとえば、自分でどうにもならなくなる。心臓の血管が細くなっている。しかし心臓細胞には、大量にエネルギーが必要です。血管が細くなっちゃっているとどうにもならないでしょう。ちゃんと意識してくれます。いきなり発作を起こしちゃって、倒れちゃって、あの苦しみは二度と御免ということで、ちょっと変化してもらうんですね。バイパスをつけたり、食べるものに注意したり。普通は心臓があることは意識しません。心臓は自分勝手でやっています。自分勝手でできなくなったときだけ、ほかのデパートメントに連絡するんです。脳細胞に。働きなさいと。

 

そこで脳が怖くなっちゃって、あちらこちらにメッセージを送って何とかしようとする。でなきゃ、意識・自我には場所がないんです、ほんとは。寝てでもずーっといられるはずなんですけど、そうもいかないから、目が覚めてご飯をたべなくちゃとか、そこはやってもらわないと。

 

だから、基本的に感覚が全部やらせている。たまに感覚が意識化したりします。部品を取り入れるために。それだけ見て、人間が魂論やら自我論やら、言うわ言うわ、もうキリがないく。

 

無意識と言うのはすごく巨大で、意識と言うのは氷山の一角だけです。だから、大量に無意識で生きているんですね。無意識でグチャグチャと働いていますね。意識と言うのはほんの一部だけで、ぜんぜんどうったことがないということです。

 

そういうことで、感覚でわれわれは生きている。感覚は苦になってますね。心臓の調子が悪くなると、気分が良くなりません。胃の調子が悪くなると気分が良くなりません。そうやって、悪くなるということが決まりなんです。

歳取って体が痛くなると、気分が悪くなる、という決まりなんです。だから、気分が悪くなる、痛くなる、と言うのが決まりのパターンなんです。

 

そういうわけで、感覚は苦であるという決まりですが、仏教は現実的な考えで言うので、一般人の実感に語り掛けているから、「感覚が苦である」と言われると、「ちょっと待ってくれ」と。「昨日わたしは、孫と遊んだよ。あれは楽しかった」と言うでしょう。「明日、孫とディズニーランドに行くから、ワクワクして待っていますよ」とおじいさんが言うでしょう。

 

「感覚が苦だ」と言っても、「わたしは孫とディズニーランドに行くことを考えただけで気分がいい」と思うでしょう。だから、日常生活の中でわれわれは、楽しみの感覚もあるんです。苦しみの感覚もあるんです。中間の感覚もあるんです。それに対立しないように気をつけているんです。それがわれわれの実感ですね。

 

しかし、感覚は寝ていても働いていますからね。しかしこの、感覚っていうのは、変わるわ、老化するわ。たとえば、ディズニーランドに入った途端、花が咲いたように喜んじゃいますけど、子供ははしゃいでいますが、おじいさんがドンドン、ドンドン、疲れてきて。「じゃあ、遊んでおいで。わたしはここで腰を掛けて待っていますよ」と。わたしも何回か子供を連れて行きましたけど、自分が工夫をするんですね。いくらか子供が環境になれたところで、「じゃあ、わたしは出口で待っていますよ」と。もう疲れているんですね。行列に並んで中に入りたくはないんですね。だからわたしは、出口のところで座って本を読んでいるんです。ジジイだから。子供はでてくると、飛んで舞い上がって、わたしは「楽しかった? じゃあ次に行きましょう」と、次に行くんです。

 あまり疲れないお化け屋敷だったら、「じゃあわたしも一緒に乗りましょう」と。それは、面白がってわたしがとことん怖がるんですね。

 

感覚は老化するんですね。ディズニーランドに言ったとたん、花が咲いたように楽しいんだけど、ドンドン時間がたつと、あの気持が老化している。

 

それからエントロピーとか、退化機能がありますね。乗り物に乗って、初めは楽しいですが、もう一回乗ると、感覚が退化して面白くなくなっちゃうんですね。それが感覚の本質なんですね。

 

そういうものを見て、お釈迦様が結局「苦」だろうと、おっしゃったんです。これで経典のメインポイントを終わります。

最終回・第八禅定まで|パーリ経典講義「相応部六処篇受相応」(6)

に続きます)

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*この記事は、スマナサーラ長老によるパーリ経典講義「相応部六処篇2受相応2独坐品独坐経」http://gotami.j-theravada.net/2010/06/ustreamdhammacast.html

を聞いて書きました。

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