ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

冥想と五戒の関係

質問

「冥想と仏教の関連性について伺います。冥想七割、初期仏教三割くらいの割合で関心があります。五戒なんかは、ちょっと守れないかなぁという気持ちです。冥想のほうには興味があるんですが、初期仏教の決まりを守らないと冥想の向上ってないのだろうか、ということをお伺いしたいです」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

関心の割合は、実践のほうにのみ関心があっても構いませんが、科学世界ですから、理論があって実践が成り立ちます。ちゃんと理論があって、だからこの実践が成り立ちます、という世界です。

 

戒律は、宗教っぽく感じる可能性もありますね。でも実践の場合はそうではないんです。科学実験をする人は、実験の前に邪魔なものはすべてシャットアウトするでしょう? ニュートリノの研究をする方々は、地球の中にすごい穴を掘って、そこに水をためてすごいものを作って実験しているでしょう。それはノイズをカットするためでしょう。

あれって戒律みたいなものなんですよ。実験が、問題なくうまくいくようにと。

 

たとえば、宇宙望遠鏡で写真を撮ったりするでしょう。光が屈折するから、科学者は宇宙船を送ってそちらに望遠鏡を付けるでしょう。なぜかと言うと、地球の大気圏というノイズをカットするためなんです。戒律ですよ、あれって。邪魔なものをカットする。

 

ブッダの冥想っていうのは、いろいろな言葉で説明できます。真理を発見すること、悩み苦しみをなくすこと、解脱に達すること、いろいろな言葉で説明されています。その言葉に対応して説明も変わります。人格向上することだ、と言ったら、今の人格がだらしないということでしょう。世間からの刺激によって、世間からいじられて、生きているような錯覚を起こしているだけでしょう、今は。

 

人格を完成しようと思ったら、そこから始めなくちゃでしょう。このノイズをね、カットしなくちゃあかんですね。それが戒律という言葉になります。

 

別の言葉を使っても同じことですよ。苦しみを乗り越えたいと思ったら、苦しみって何なのか? と。自我っていう錯覚があって、自分はこうあるべき、世界はこうあるべき、とえらい妄想しているんですよ。わたしが「こうあるべき」というふうにはならないんだからね。「今日は暖かくなるべきだ」と思っても、外が暖かくなりますか? ならないでしょう。

 

自我というのは、麻薬中毒みたいなもので、本人がそれと分からないんですよ。それで派手に悩み苦しみが生まれます。そこで自我という錯覚を消す。それを解脱というんです。悩み苦しみを乗り越えたということになります。だからと言って、座っていると足が痛くなるということはありますよ。それは合法的で論理的でしょう。悩み苦しみを乗り越えたから蚊に刺されてもなんともない、ということではないんです。

 

そこを理解して、自我がなくなって、というふうに行くと、またノイズが入ってくるんですね。ということは、自分がこうなってほしいというところは、論理的に考えてそうならない場合は諦める。たとえば、奥さんがすごくよくしゃべってうるさい。もうイライラするんですね。普通はけんかする。それは自我です。そういう場合は、自分が期待しないことにして、自分を戒める。

 

世の中から何を言われても、自分の内でそれに対する怒りを消しちゃう。それが戒律になります。正しく実験を行うために、必要な条件をそろえることが戒律です。そうなると、戒律は宗教的なものではなくなります。

 

戒律が守りにくいのは当たり前です。世間ではなんでも、人が向上するものはやりにくいんですよ。勉強することはやりにくい。マンガを読むことはいたって簡単です。わたしにはやりにくいんですけどね。脳にそういう配線ができていないんです。この間もネットからマンガをダウンロードして読んでみましたが、何を言っているかさっぱりわかりません。

 いやいやでも、難しい本を読むと成長します。成長につながるものは残念だけど難しいです。それが世の中の法則なんです。

 

宇宙空間で実験したほうがすごくやりやすいということは、科学者は知っています。たとえば、電波にしても、衛星からすべて送れたらずいぶん便利になりますが、そこまでの道が大変なんですね。宇宙船を、衛星を空に飛ばすことは大変です。楽ではない。そんなもんなんですね。だから戒律が守りにくいのは当たり前です。

 

戒律として見ないでください。戒律ではなく常識として見てください。

 

戒律第一は、「殺生するなかれ」でしょう。それを常識で見るんです。「殺していいのかい?」と。自分勝手に他の生命を殺しまくっちゃうと、どう考えても変でしょ? どんな生命にも生きる権利があるでしょう。その権利まで奪って自分が生きる、ということは、どれほどおそろしい自我の錯覚ですかね。自我の錯覚を戒めるために、殺生をやめる。結構きついんですよ。嫌なものは殺しちゃった方が楽なんです。でも、それが正しい道じゃないんです。

 

戒律の二番目は、「嘘をつくなかれ」でしょう。嘘をついて人をだましてまで生きていく? 自分も嘘をつかれて騙されたくないでしょう? それで他人には嘘をつくって、どんな態度ですかね。情けないでしょう。自分は騙されたらすごく嫌な気分になっちゃって、攻撃に行くんですよ。その人との関係をまるっきり切っちゃったりして、ほかの人にもその話をしたりして、大変なことをするんですね。自分を嘘でだました人の不幸のために。

 

では、自分が嘘をついたら? 同じことが起こるでしょう? なんでそんなことをやるんですかね。

 

ですから、戒律は守りづらいんだけど、守ったほうがいい、というふうに項目ができているんです。

 

アプローチの問題です。宗教的にみると、なんか変なことをやりたくないという気持ちが出てくる。そうではなくて、科学世界のアプローチなんです。

 

<東京法話と実践会 2015.11.29

http://www.ustream.tv/recorded/78705448(期間限定公開動画)

(8:00くらい~21:00)より書きました。>

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