ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

ヨガのブラフマンやアートマンはニルバーナか?

質問

「ヨガで、最終的な境地をブラフマンと言ったり、アートマンと言ったりしていると思うのですが、それはニルバーナと似たようなものなのですか? それとも人によって、それぞれどういうふうに認識したのかという、言葉の違いなのでしょうか?」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

もし、ニルバーナとブラフマンアートマンが一緒だったら、お釈迦様がそうおっしゃっているはずなんですね。

しかし、お釈迦様は、そういうものがあった時代に、それが間違いだとおっしゃった。それを今更何よ、ということになっちゃうんですよ。お釈迦様は当時、修行しつくしました。その結果、(そうした修行の終着点は)間違いだと。これでは、わたしたちが探し求める安穏は成り立たないんだ、とおっしゃった。

 

それから仏教が発展したところで、後になってから、ニルバーナとブラフマンアートマンは一緒だと、言い出した人々が出てきた。しかし、そうじゃなんです。ブラフマンアートマンではないんです。ニルバーナは、それらとは全く正反対なんです。

 

そこでわたしは、現代的にこれをどう理解しようかなと思って、こう考えました。ある科学実験が間違っている。その理由は、まず、「自分がいる」と前提を決めたことです。これ、仮説にしなかった。「自分がいる。これは確かな事実だ。自分がいるならば、自分を作った誰かがいなくちゃ」それには、ブラフマンでも真我でも、とにかく適当な単語を付けた。本人は、それが単語だとわかっています。

 

「自分がいるのが確かならば、自分を作った神がいることも確かな事実です」と決めてから、「それで経験をしてやるぞ」と修行をする。経験したところで、体験しなかったら、「じゃあ、方法を変えましょう」。また体験しなかったら「また方法を変えましょう」、というのは、科学的ではないんです。

お釈迦様は、「わたしがいる、というのは仮説である」として、それが正しいかどうかと研究しなくてはいけない、とそういう実験をした。だから、前者は初めから方法が間違っている。

 

お釈迦様は、「我はいる、という気持ちがある。それは何なのか?」と調べたところで、膨大な真理を発見したんです。今、わたしは、ニューロサイエンスの本を読んでいます。わたしは科学者でも何でもありませんが、本を読んでいて思うんですね、「この方々は、わたしたちの説明をちょびっと聞いた方が研究が進むでしょうに」と。

最新の研究を読んでいるのに、「ブッダの説明のほうがもうちょっと進んでいるなぁ」とわかってしまいます。だから、お釈迦様が膨大なことを発見したのは、正しい科学的なアプローチでいったからなんです。科学的なアプローチを世の中に最初に説かれたのはお釈迦様なんです。

 

十項目教えています。ずーっと言い伝えられているものであっても、信じるなかれ。話に乗るなよと。聖典・経典、いろんな本にあるからと引用しても、それは証拠にならない。あるいは、理論的で理屈が成り立っているからと、話に乗るなよ。あるいは、可能性がある(状況証拠がそろっている)ことに乗るなよ。最後に、わたし(お釈迦様)が言っているからと言って、乗るなよ、試してみてください、と。

 

仏教は科学的なアプローチで、というのは、西洋科学とは違いますからね。そうではない、科学的なアプローチ、それが大事なんですね。それをお釈迦様は教えました。

 

インドの方々は、はじめからちょっと、修行は似ているものはありますけど、スタートポイントが違ったんですね。前提が事実で、事実から次の事実を発見しようと、事実を確認しましょうと。

 

だから、おもしろいことに、ウパニシャッド哲学に書いてありますよ。ウパニシャッド哲学はお釈迦様の時期に出始めました。かなりお釈迦様の影響もあったみたいね。三つくらい、お釈迦様の時代に生まれました。当時、本はなかったから、テキストとして残ってはいません。

 

お釈迦様が、「これが自我ですか? いえ、これは自我にならない」「これが自我? 自我にならない」と調べて、調べて、これ以上何もない。ということは、自我がないということでしょう。そう結論付けたところで、ウパニシャッドでは、同じく「これは自我じゃない。これも自我じゃない。別なものです」

 

「別なものです」と、どうやって決める? そこが間違いなんです。ほんの微妙なところ。だって、自我がある、と言う前提だから。「これは自我ではありません。自我ではないんだけど、自我は別なところになる」「手は? 手は自我じゃないんだけど、自我は別のところにある」

 

そういうことだから、その方法では、初めから終わりまで間違えてしまいます。

だから、(ニルバーナとブラフマンアートマンは)全く似ていないんですよ。修行だったら、人間が考えるところだから似ているところはありますよ。

 

神様の機嫌を取ったほうがいいとか、儀式儀礼で動物を殺してお供えしたり、それはお釈迦様やジャイナ教に派手に批判されたから、そういうのはどんどんなくなっちゃって。

最初、バラモン教は修行することは大嫌いで、冥想する人々を馬鹿にしていました。でも、それでは結局うまくいかなくなっちゃって、バラモン人の中からでも修行してみましょうと言う人が出てきたんです。それから、お互い交流して、いろんな冥想法がバラモン教でも現れてきたんだけど、ごちゃごちゃたくさんありますけど、前提を間違ったら全部間違えますよ。スタートポイントを間違ったら。

 

質問者ブラフマンアートマンがあると、決めつけないで修行したほうがいいのですか?」

 

何も決めつけない。何が真理なのか、ということで、そのクエスチョンでいくんです。いわゆる科学者よりも、精密にいかなくてはあかんです。

 

修行すると、ブッダの教えも参考にしないんです。それで修行すると、なんて言いますか、バイアスが入るかもしれません。他の研究は、いろいろなバイアスでやっていますよ。だからずいぶん時間がかかるんです。いまだに完成していません。仏教はバイアスゼロの実践なんです。

 

でも今は、バイアスだらけでしょう。そこはもう、落として、落として、行かなくちゃいかんです。

他のものを混ぜたら、まるっきりおかしくなっちゃうんです。たとえば、インドのヨガが好きなら、それをやるのは一向にかまいません。その先生について冥想してみて、何か経験があったらあったで構いません。それは解脱ではないので、悩み苦しみは消えません、ということは確かに言えます。やってはいけない、ではないんです。

 

仏教になってくると、バイアスゼロの世界です。自分が、ハチャメチャバイアスの世界で生きている自分が、バイアスゼロで真理を見る。ありのままに見るとはそういうことなんです。ヒンドゥー教はありのままに見ていないでしょう。あってほしいままにみているでしょう。アートマンブラフマンで。

 

<東京法話と実践会 2015.11.29

http://www.ustream.tv/recorded/78705448(期間限定公開動画)

(28:00~41:00)より書きました。>

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