ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

日本社会とお酒

葬式と金と酒 から続きます)

質問

「日本に住んでいれば、お酒との付き合いは避けられないじゃないですか。葬式、結婚式、歓迎会、送別会、飲み会。給料をもらって生活している以上、そういう会に『わたしはいきません』と言うのは無理なんですよね。その場合、お酒との付き合いはどうしたらいいのかなと」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

決まりっていうのは、変わるもんですよ。勇気がある人は変えるんです。

 

キリスト教では、死体を燃やしたら魂も燃えると考えていた。魂は物質だと信じていたでしょう。だから埋葬ばっかりやっていた。

 今、イギリスで埋葬する人がいますか? ほとんど埋葬しない。火葬です。習慣が変わっているんでしょう?

 

最初に火葬した人は、周りから馬鹿にされたでしょうし、「神も信じていないやつだ」と言われたかもしれませんよ。でも、勇気をもって火葬したら、習慣がより良い習慣に変わっていくんです。

 

イスラム教では、ぜったい火葬はしないんですね。あの方々の魂はずいぶん燃えやすいものなんですね。だから埋葬する。将来どうなるかはわかりませんけどね。

 

ヒンドゥー教は、火葬する。埋葬は適当にやる。昔は、そんなの捨てちゃいましょうと、捨てていた。遺体を捨てようが、動物に食べられようが、魂は大丈夫です。ヒンドゥー教では魂は永遠だから、それは壊れないでしょうと、理屈っぽいですよ。その方がマシですね。

 

原始的なのは、日本でも、骨はどうしよう、灰はどうしようと。シンガポールでは、火葬して、灰を全部持って、ボートに乗って海にまいてしまう。海は広いからいいことやったという気分になるでしょうね。宇宙にばらまく人もしますしね。山の上に登ってまいたり。

そこら辺の植木鉢にまいてもどうってことないと、わたしは思います。でも普通の人は、そんなことをしたら怒っちゃいますね。

 

わたしが言いたいポイントは、しきたりと言うのはそんなにしがみつくことはありません。たとえば、葬式であっても、ものすごく昔と変わっているはずです。今も変わりつつ、なんです。わたしがコマーシャルとか見ると、「もっと新しいやり方でやりますよ」と宣伝していますよ。だから、しきたりは変わります。

 

そこで一番いいことは、より理性のある人々は、勇気を出して変えることです。最初は、非難・侮辱・抗議を受けますよ。でもめげずにやっちゃうと、それから変わっちゃいます。それからは、気にする必要はないんです。

 

たとえば、あなたが会社で、「飲み会に行きましょう」と誘われる。「行きますよ!」と、自分から先頭で行って、「わたしは酒を飲みませんからね」と言う。周りが「えっ、酒飲まないの?」と言ったら、「酒を飲まなかったら参加する権利がない?」と返せば、相手は負けますよ。だって、明るい人で、いたほうが雰囲気が良くなるし、冗談も言ってくれるし、いろいろと手伝いもしてくれるし、つまり勇気があるということは、それなりに活発ということでしょ? そういう人が「じゃあ帰ります」と言ったら、雰囲気が悪くなるんだから、「い、いいよ、いいよ。酒飲まなくて」ということになっちゃう。

 

わたしは実際にやってみたんですよ。三十年ほど前に。学生の仲間たちが、自分たちで何か会をやって、「あんたもどうですか?」と。「わたしはあんまり……」と言ったら、「でも、みんなと仲良く知り合った方がこれから楽じゃない?」と。それもそうだなと。

「でもね、わたしは酒は飲みませんからね」「ああ、よくわかりましたよ」

 

ということで、みんなは酒を注文して、わたしはジュースを注文した。それで、わたしはよくしゃべる。だって酔ってないから。役に立つことをしゃべる。

 

会費を払う場合は、わたしの分はずいぶん少ない。わたしは言ったんですよ、「かまいませんよ、みんなと同じで」と言ったんですが、「あなたは酒を飲んでいないから、みんなと同じではよくない」と。

しかし、学生だから、懐具合もあるし、わたしは何回も言ったんです。「均等に分けてください。酒を飲まなかったことは理由にならないんだから」と。それでも、「いえ、それはちょっとまずいんだから」と、そこは何かややこしく計算して、「あなたはこれくらいだ」ということになった。

 

そういうふうに、皆さんが思うほど、怖い世界じゃないんです。勇気を出すだけなんです。わたしの仲間にも日本人の僧侶がいます。葬式に行くのは当たり前でしょう。でも酒は飲まない。はっきりしているんです。

それで、遺族は変に思うかと言うと、思わないんです。

 

だから、これが普通だと思いますよ。個人の自由を守ってくれます。あんまりなんでも、酒で決めるという習慣は良くないんですね。なぜならば、酒を飲んだら頭が悪くなるだけでしょう。決まっているんだからね、結果は。頭が悪くなることで、大事な判断や話をできないんです。

 

そういうのは、早く変えたほうがいいんです。誰か勇気のある人が活動したほうがいい。酒大反対、と言う過激なことじゃなくて、飲みたい人は飲んでください、飲みたくない人には飲まない自由がありますよ、とする。肉を食べる権利があるからと、野菜しか食べない人に無理矢理肉を食べさせることはしないでしょう。

 

たとえば、いろんなアレルギーを持っている人がいるでしょう。その人が食べられないものを、「仲間だったら食え」と言うのは変ですよ。酒は飲めと言っているのに、ある人が「わたしはピーマンが嫌いだ」と言ったら、「そうか、じゃあピーマンが入っている料理はやめよう」と、そこは認める。変でしょう?

 

体の中に入れるものは自分の責任で管理してほしい。それには人がガチャガチャ言う権利はない。お母さんにはあるかもしれませんけど。

知識的に「これは食べないほうがいい。野菜食べないで肉ばかり食べないほうがいい」というのは、親切な行為です。

 

昔、吉野家に入っていたら、ある若い二人の客が来て、注文するときに「玉ねぎを入れないでください」と。店の人が一生懸命、牛丼から玉ねぎを一つずつ取り除いていた。それはちょっと能率が悪いんだからね、食べる人が玉ねぎを取りながら食べたほうがいいでしょう。

 

とにかく、何を食べるかということは、人の権利ではありますが、知識的に、「わがまま言わないで、これも食べなさいよ」と言っても別に悪くわない。だからと言って、酒を飲めとか、肉を食べられない人に肉を食えと無理矢理食べさせる必要はないでしょう。

 

そういうことで、ちょっと、社会が良くなるために頑張ってみてください。勇気を出して。

(おわり) 

<東京法話と実践会 2015.11.29

http://www.ustream.tv/recorded/78705448(期間限定公開動画)

1:09:00~1:23:00より書きました。>

f:id:thierrybuddhist:20151204133839j:plain 

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