ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

自我をなくす準備

質問

「自我・自意識から、なかなか抜けられないんですが、抜けるための心構えをおしえていただけませんか?」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

心構えというのはね、特別ないんです。お釈迦様が教えられた冥想をするしかないんですけど、これ、時間かかりますね。自我がいくらか、早いうちになくなります。しかし、自分という、なんていいますかね、実感というものがオロオロと追ってくるんですね。

 

覚りは四段階ありましてね。四番目に達したら、自我・自己・自分という実感というものは消えてしまうんですね。そこまで、かなり追っかけてはきます。

 

で、自我とは幻覚です。これは脳のカラクリで、そこは学んでみれば、かなり楽になります。なんで自我っていう幻覚を作ったかというと、それは、どういえばいいんでしょうかね、真理の世界からみれば、物事は生まれては消えていく、生まれては消えていく。なんとなく連続性があるんだけど、だから何、というのじゃないんです。

 

例えば、わたしたちはリンゴを食べていますけど、このリンゴは遠い昔現れたリンゴの種が、ドンドン、ドンドン、消えては現れ、消えては現れしてきました。けれど、過去のリンゴとはほとんど何の関係もないんですよ。過去のリンゴと永久的に何か変わらないものがつながってきているわけじゃないんですね。まるっきり違う。が、連続性はあるんですね。まるっきり違うと言っても、過去のリンゴはジャガイモだったということはないしね。

 

そのように、すべての物質やわれわれのこころっていうのは、消えて、消えて、消えていくんです。そこで一つのこのシステムの中で、何かまとめなくてはならんですね。一本の流れですから。この流れ、あの流れ、とか、川がいっぱいあるような感じで。

 

例えば、川が一億くらいあれば、やっぱり名前を付けておかないと。そのようにわれわれも、この世に生まれたときに、その組織に何か名前を付けておくんです。人間として生まれたこころと物質の流れに、たとえば、イチローという名前を付けておくんです。その付けたラベルは変わらないんですね。

ときどき、つけられた名前が嫌になっちゃって名前を変えたりとかしますけど。たとえば、昔名前を付けたけれど、今になったら、その名前が恥ずかしくなってくるとかね。名前はラベルなんですけど、時代によって、人気のあるラベルと人気のないラベルがでてくる。

 

そういうことで、生まれたものに名前を貼っておく。それからものすごい勢いで変化していくんですよ。生まれた人はドンドン変化して、別人になります。成長して、また変化して別人になる。次から次へわからないほど変わっていってしまいます。

 

そこで、ラベルでなんとか一貫性を保とうとするんですね。そのように、われわれは気持ち的に「わたし」という概念・観念を入れておくんです。それでなんとか、赤ちゃんの写真を見て「これはわたしでしたよ」と。「わたし」という観念がなければ、赤ちゃんの写真を見て「これはわたしです」とは言えません。どう見ても自分じゃないんですけどね。

 

そういうふうに、われわれは、生まれてすぐ、この体で物事を感じたり見えたり、味わったりする時点で、明確に「わたし」というのはないんだけど、なんかドロドロとした「わたし」の化け物はいるんですね。一週間程度経つと、赤ちゃんもなんとなく「わたし」を作っているでしょう。まだ「わたし」という言葉はないんです。子供は「わたし」と言うより自分のことを自分の名前で言いますからね。だいたい気に入っているみたいですね。執着が生まれていますね。「○○ちゃんはね」と子供が言うのは、自分のことなんですね。内面的には「わたし」ということをしっかりとらえているんですね。そういうことで、便利なフレーズですよ、これは。

 

子どもたちが数学をやっていると、XとかYとか、何とか使うんですね。あれって、XとかYは何の意味もないんですよ、ほんとは。ただ、なんでも入れられる可能性がある、便利なシンボルなんですね。シンボルには、たとえばYとは何かと、言わないんだけど意味がないんです。

 

たとえば、2×3は6なんですけど、X×YはXYですね。全然計算していないんですね。

それって便利なんですけどね。あらゆるものごと、過去のこと・将来のことをXでまとめる。「これはXである」と。自我の場合は数学と違って、Xファクターは何でもありきなんです。

 

そこで、認識過程を冥想でしっかりと調べてみると、Xファクターは過程につけているラベル以外なんでもないんだと、わかってきます。それで自我ということが破れます。それでも、「自分がいるんじゃない?」という実感みたいなものはまだ残っています。それで、さらに、さらに、冥想すると、自分がいるんでしょうという気持ちが、感覚に対する愛着、「見たい・聞きたい」んですね。「なるほど、見たい・聞きたいというところに、自分という実感が出てくるんだ」とわかる。それから次に、「見たい・聞きたい、というのは何やこれは?」

 

そこをさらに冥想していくと、これは無知があって無明があって、物事は変化していくのに、そこで渇愛が生まれてきて、本当は渇愛が生まれなくてもよろしいのに、そこで勝手に生まれてくるんだから、何だこりゃと。こんなややこしい、おそろしい組織に、どうでもいいことで壊れかけていることに、そういう気持ちを作っているんだということがわかってくると、なんでも消えるんだからラベルは貼れませんよ、という実感が出てきたときに、消えちゃうんですね。

 

だから、心構えと言えば、やっぱり無常、生まれて消えているありさまが世の中どこでもあると、そういうふうに興味を入れてみればね。たとえば噴水を見て、「なんて美しいんでしょう」じゃなくて、瞬間瞬間消えて、消えて、新しい噴水になっていく。花を見て「なんてきれいでしょう」ではなくて、毎年毎年、別の花が咲いているんです。別の花じゃなくて。咲いた花は永久的に枯れて消えるんです。戻ることはないんです。が、それで花が終わりというのじゃなくて、新たなものが現れてくる。

 

だから、消えるものは永久的に消えるんだけど、その代わりにまた変なやつが生まれてくるんですね。それでキリがなくなってしまう。

 

われわれは、言葉上、桜の木があって桜の花があるということにするんです。ホントかい? と。ホントは無いんですよ。新しい花が咲いて、永久的に消えていくのと同じく、桜の木も、ずーっと変化していくんです。だから毎年新しい桜の木なんです。

 

そういうふうに、なんでも物事を見ると、自分の服を見ても、水を汲むときでも、無常が現れているんですね。どこでも、ドカーンと顔を出しています。真理は隠れません。一番、堂々とあるのは真理なんです。そういうことで、ブッダは、真理は無常ということにしているんですね。どこにも隠れていない。何を見ても無常そのものと見えてきます。

 

無常を発見する、ちょっとした興味を持つ。知識的に、理性的にね。無常を発見しようよ、と。世界はその反対なんですね。無常を発見しようとしない。テレビを見るときでも、本を読むときでも、花見に行くときでも、無常を見ようとしないで逆をやろうとします。「あ、去年と同じだ」というでしょう。とんでもない。去年と同じものがあるわけないでしょう。「この祭りは何百年も前からずっと同じことをやっていますよ」というのはあり得ないんです。

 

世間は、無常を発見しようではなく、無常でないことにする。テレビをみて、「足が速いな」と思う。その速さが見えるわけないでしょう。テレビは静止画しか映していないんです。映画は静止画像しか映していません。だから、画像が動いていると目が作りますからしようがないんですけど、それでも光の速度で変化しているんだと。テレビのモニターであろうが、映画のスクリーンであろうが、光でしょう。光ってすぐ変わるものだからね。止まる光ってある? あり得ないでしょう。水晶玉みたいに、こちらで光が止まっているんだよ、というのはあり得ない。

 

光は一種の素粒子なんです。止まりません。消えるんです。すべて物質は素粒子でできていますからね、止まりません。消えるんですよ。止まらなくて動く、というのではなく、消えるんです。消えると、ほかの変なやつが生まれてきます。

 

津波みたいなもので、どこかで津波が生まれて消えたら、その代わりに別なところで別の何かができるでしょう。初めの津波は海水だけですが、それで壊れた建物や車が、次の津波に混ざってしまう。この津波が、何百トンのものとしてやって来て、ぶつかっちゃいますから。だから、同じ津波じゃないんですね。瞬間瞬間、変わっていって、まるっきり別なものになったりして。

 

しかしわたしたちは、なんとか沖の津波で、こうなったんだよと言いますが、あれはただ、人間の世界で言っているいわゆる嘘ですね。無常なのに無常じゃないという設定でしゃべっていますからね。

 

そういうことで、自我をなくしたいと思った方々は、ちょっとした準備としてね、無常をみる。自我の錯覚は冥想でしかなくならないんです。冥想して脳を開発しない限りは、それはなくならないし、幻覚は作ります。たとえば、幻覚を作っている精神的な患者さんだとしましょう。「あのね、それは幻覚ですよ。今からその幻覚を作らないようにしてください」と言われても、病気だから。次から次へと作るんですよ。たとえば脳にちょこっとした異常があるとか、できものができたとか、どこかで微妙な出血があったりとか、それだけでも変な幻覚が起こるんですよ。「いい加減、変な幻覚をやめたらどう?」といわれても、しようがないでしょう。それは治療して治さない限りはね。

 

治療してもらったら、「あ、消えちゃった」と。それは本人がわかっています。「わたしは依然、すごい幻覚を見ていました。あれは幻覚であった」と。

 

冥想で脳を開発しない限りは自我という意識は消えませんが、ちょっとした準備はあります。塾に行かなくちゃあかんですね。塾に行って勉強したら、今度は受験しなくちゃですね。そういうふうに、塾でさらに勉強するような感じで、無常を発見するという習慣を入れてみてください。結構面白いんですよ、無常を発見すると。それでいくらか準備が出来上がると思います。

 

関西定例冥想会 2012.04.30

http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1715971.html より書きました。

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