ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

懺悔(ざんげ)とは何か?

質問

「日常経典に出てくる『懺悔』という言葉がよくわからないのですが……?」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

人間っていうのは、過ちをいっぱい起こすでしょう。人間だけじゃなくてね。

われわれは完全じゃないし、物事を知っているわけでもないし、なんとなく、スイカ割りの目隠しをしたような感じで生きているんだから、当たる場合もあるし当たらない場合もあるし。

 

仏教からみれば、どうしてもわたしたちは、ありのまま認識できないんです。いつでも幻覚を作って、それを認識にするんですね。これは花だろう、花に決まっているだろうという態度をとるんです。でも、本当にそれが何かということはわからないんです。別に花が見えるわけじゃないし、目が何かのデータに触れちゃって、その信号が脳に行くだけで、脳が自分の好きなように花を作るんです。脳に記憶してあるいろんなパートをつなげて、それを花と言う。

 

そういうことで、仏教では、見るもの・聞くもの・味わうもの・考えるものが、正しいということではないんです。どちらかと言うとおかしいということです。たまたまスイカ割りでも当たるように、たまたま正しいことも発見しますけど、目隠ししていて当たっただけで、周りの人がギャアギャアギャアギャア言っているんだから、当たる確率が高いんですよ。もし周りの方々が黙っていたら、当たる確率が下がります。「右右、もうちょっと左!」とかね。そういうふうに言っていても当たらないしね。あそこまでガイドされているのに。

 

わたしたちの人生のスイカ割りは、そういうガイドもないんです。目隠しをしてグルグルと回されちゃって、あまりにも激しく回されるので頭がこんがらがっちゃって、それでもなんとかやっている。人生っていうのは、全体的にそのように生きてきたんですよ。あなたにしても、あかちゃんのときは何もわからなかったのだけど、相当大胆な判断をしてきたでしょう? 小さいときにも、お母さんが「ダメや」と言っているのに、認めませんね、自分の判断が正しいと。

 

小さいときは、いくら自分の気持ちがあっても、お母さんの言ったことを聞いた方がいいのに、聞かない。欲しい物は欲しい。嫌なものは嫌。学校に行きたくないと思ったら、行きたくない。大人になっても同じです。変わっていません。自分の判断は正しいと、断言的に頑固にいくんです。

 

そういうことで、生きることは過ちの連続以外なんでもない。そこで懺悔することによって、脳のプログラムが、ちょっと直す方向に入るんです。認めることに。間違っていたということを認めていきます。それは落ち込むことじゃなくて、誰でも間違うのは当たり前です。それが自然の流れですから。しかし、俺が正しい、ということじゃないんだよと、かなり楽になって、どんどん、どんどん、もうちょっと気をつけましょうと、こころに柔軟性が生まれてきます。

 

こころに柔軟性があるというのは欠かせない条件ですよ。柔軟でなければ直らないでしょう? 固いんだったら壊れるんです。だから、こころに柔軟性が出てくる、まず。

 

それから容量が、ものすごくどんどんどんどん、大きくなってきます。これはすごく大事なことで、たとえば、宗教の世界っていうのはすごく狭くて、「豚肉を食ったら地獄に堕ちてしまうんだぞ」ということになってしまう。他にもいろいろ決まりがあって、カトリック教では離婚したら教会に入れてくれないんですね。宗教を侮辱しましたね、と。そこまで厳しく、狭くなっていくんですね。

 

宗教だけ悪いかと言うと、そうじゃないんですね。人間みんな、結構狭いんですよ、こころが。たとえば日本に住んでいる方々は、日本のしきたり習慣が一番最高だと思っている。他の国に住んでいる人々は、自分たちのしきたり習慣が最高で、他は変だと。それで他人のことを変だとみられることはね、すごくこころが狭いということです。

 

たとえば、日本の例で言いますけど、ある立派な男の若者がいる。この男が女装している。すると周りの人々は「お前は変だ」と言っちゃうでしょう。なんで変人、変態と言う言葉が出てくるんですかね? それは自分のこころが狭いからです。

 

学校によくあるいじめ。ある子供に、学校でいじめられないように、わたしはちょこちょことある特別なアドバイスをしているんですよ。これを今回テストしてみたんです。どこまで容量の大きい人間になっているのかいと。「君の頭の中でサルは何匹いますか? 虎は何匹いますか? 豚は何匹いますか?」と、これは学校の仲間のことを聞いているんです。わたしがそう聞いたら、この子はすぐにわかったんですね。どんな意味かと。

 

その子はこう答えたんですね。「自分の考えが正しくて他は変だと思っている、石の様に頑固な人はいっぱいいるんだ」

まだまだ小さい子供ですよ。その子が、「みんな、『俺だけ正しい』と思っている連中だ」と。それで、周りに攻撃するんだ、と。それを聞いてわたしの反応は「それだったらサルにもなってないね」とかね。だって、仲間と殺し合いするのはサルでもやりませんからね。「お前の学校の仲間たちはサルにもならんね。ライオンにもならんね。じゃあ、お互いに殺し合いするのは誰でしょうか。魚ぐらいでしょう。サメは共食いしますからね。それなら魚の群れですね」と、ちょっと冗談を言って終わったんです。

 

わたしはこのとき、無意識的に子供に教えたのは何かというと、世界はいつでも極限に狭いこころを持って、自分と違うものは破壊しようとして、共食いの生き方をしているんですね。だから学校でいじめがあるんですね。

 

いじめられても、その子は、誰よりもカッコいい生き方をしているんですね。かえってそれが変だと言われているんですね。どんなことを言われても別に気にしないとか、「ありがとう」と言うんですよ、逆にこいつは。それで先生まで、「やっぱり変だ、この子は」と。ある先生とわたしは話をしてね、先生は「よくわかりました。この子が人間に計算できないすごいことをやっているのは、全部あなたのせいだ」と(笑)。わたしのせいじゃないんですけど。

 

そういうことで、こころが狭いっていうこと。容量がすっごく少ない、初期時代のパソコンみたいにね、4ビットのプログラムで、メモリは大きくても120キロバイト。メガバイトじゃない。今は、キロバイトでは一つのプログラムも動かないですよ。こんな頭で生きてますよ、キロバイト頭で。人間はやっぱり、テトラバイトの世界で生きていなくてはね。

 

懺悔するっていうことはね、そういうふうに心理学的にこころを変える、最初の一歩なんです。それで道が開いてきていますよ。こころの容量が広い人間にどんどん、どんどん、なってくる。相手が変じゃない、相手が変だったら俺も変でしょう。「お前は変人だ」と言った時点で自分が変人でしょう? でなきゃ相手が変人に見えませんから。

 

そういう立派なこころは、柔軟性があって、どんどん伸びて、より容量の大きい人間になること。そのスタート、はじめの一歩は、懺悔です。

 

関西定例冥想会 2012.04.30

http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1715971.html

  

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関連エントリ:なぜ懺悔をしなくてはいけないのですか? - 瞑想してみる

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