ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論、実験結果

肉食と慈悲の矛盾

質問

「慈悲の冥想のなかに『生きとし生けるものが幸せでありますように』というフレーズがあるんですけど、人間は豚や牛を食べています。これは矛盾ではありませんか?」

 

回答(スマナサーラ長老)

 

矛盾は当然あります。

矛盾はあるんだけど、生命は生き物を受け入れられないんです。われわれは死んだ肉を食べている。物質しか食べてないんです。だから、食料にする前に殺す必要が出てきます。人間は、さらにそれを料理して元の状況を変えたりするんですね。しかし、矛盾は当然あります。

 

それが、存在の恐ろしさです。存在は他の生命がいて成り立っているのに、他の生命をつぶしてそれを取り入れています。その矛盾は慈悲の冥想にあるんじゃなくて、存在のシステムにあります。それはわかってほしいんです。

 

鳥たちは昆虫を食べる。魚はほかの魚を食べる。草食動物だけですね、いくらか生命を殺してないのは。でも、植物も生命と同じ細胞で生きているものだからね、結局は。仏教は、植物にこころがあるとは言っていないんだけど。

 

なんで栄養を取るのかと言うと細胞を維持するためでしょう。結局は壊れていく細胞に必要な部品を取り入れるためなんです。だから草食動物も、結局はほかの細胞を壊して、そこから細胞を取っちゃう。それをやっていないのは植物だけです。植物には生きていきたいという気持ちは(こころがないから)ないんですよ。

 

そういうわけで、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じると矛盾が見えるのは当然のことで、矛盾がありますからね、これは存在のシステムの恐ろしさです。そのようなシステムは成り立たないんです。

 

鳥が昆虫を食べるのはいいや、当たり前やと言えないでしょう。昆虫も生きていきたいんだから。鳥も生きていきたいんです。お互い様の尊厳をどうやって守るのかと言うと、そこに矛盾がある。

それを理解したうえで慈悲の実践をやってください。

慈悲の実践は、他の生命がなければ成り立たないものであると理解することですからね。

 

人間は命あるものを食べていません。たまに日本人とか、森の中で生活する部族が、生きたままで食べたりするんだけど、普通の人間は生きたままでは食べないんですね。それは動物だけなんです。われわれは材料を取っているだけなんですね。体に入るときには、命ではないんですね。それでも、慈悲の気持ちでご飯を食べると、間接的にでも罪に問われません。たとえば、欲張っている人々が「たくさん魚を取ってほしい、そうすれば安い値段で手に入るぞ」と思うのは、自分の妄想で殺生の罪に参加しています。

 

釣りのテレビ番組とかは、見る人にも殺生罪を作ることになります。だから番組を見ると、いい魚がとれて「ああ、よかった!」という気持ちになるでしょう。罪です。慈悲の冥想をやるとそれはないんです。「なんて馬鹿か。かわいそうに、殺されているんだ」と。

 釣られた魚が、ガタガタガタッと、生きていきたいでしょうに。釣った人間が全く命の尊厳を感じずに、「とれたぞー!」と写真を撮ったり、魚の大きさを測ったりして。動物には文句言えませんですけどね、人間がやっていることがいかに残酷かと。

 

慈悲の冥想をすると、世間は罪を犯していますが、慈悲の冥想をする人には罪を犯さず生きていくことができます。肉魚を食べていても。よろしいですか、それで。

 

質問者「じゃあ、漁師さんとかに罪を犯させて……」

 

そういう妄想をするならば、あなたにも罪になるんです。「わたしは漁師さんに罪を犯させます。だから魚を食べます」と思ったら、あなたにも罪が入ります。だから自分の妄想次第で罪になったり、ならなかったり。

 

魚が売っている。魚と言っても死骸だからね。もうとっくに死んでいる。死んで何か月たったかわからないんですね。冷凍したものを解凍して売られているでしょう。だから物体として見る。食べなくては生きられませんから。思考次第で罪になったり、ならなかったり。罪を作らなくてもよいところで、意図的に罪を作るのは仏教では極端な馬鹿だというんです。巧みじゃない。巧みにいきなさいと。

 

そういうところが、ご自分の思考妄想によりますね。どうしてもその思考から抜けられなければ、肉魚をやめるしかないんです。そこできれいさっぱり、もう大丈夫です、と。かつて生き物であったかもしれませんけど、今はそうじゃない。死んだら物体ですよ。死んだらへっちゃらで燃やしちゃうでしょう。かつてお母さんだったから燃やさない? もうお母さんじゃない、ただの物体です。

 

現に皆様方はお葬式をやっているのに、魚を食べたら殺生罪に問われるんじゃないかというのは、ちょっと思考がおかしいだけなんですね。だったら魚どころじゃなくて、自分のお母さん・おじいさん・おばあさんが死んじゃったら、そのまま置いておいてください。だってかつてお母さん・おじいさんでしたからね、燃やすわけにはいきませんね? (そうではなくて)結局、命がなくなったら物体です。

 

自分で殺すことと、殺させることをやめてください。それでちょっと生き延びてもらって、修行して、輪廻全体を脱出する。そういう狙いがあるんです。仏教は生きることを讃嘆しません。生き延びることがすごくいいことだと思っていないんです。

 

科学者は無常を発見してこころが存在しないと発見していますけど、解脱までいかないのは、そのポイントです。やっぱり存在を肯定して、「仕方がないんだ、それが法則だ」ということにしています。仕方がないんじゃなくて、「仕方がありますよ」というのが仏教です。

 

魚や肉を食べて生き延びても、それは別にどうったことはない。もともとわれわれは、生き延びることがカッコいいことだと思っていないんです。解脱こそが唯一正しい道だと思っているからね。

関係ない、いらんことでも罪を犯す人間ってなんなのかねぇ。

 

どこかで戦争があると応援する。たとえばイラクでアメリカがたくさん人を殺しちゃったでしょう。それに日本が参加する。あの戦争は嘘で戦争を始めたということがばれています。CIAの間違っているデータで、フセイン大量破壊兵器を持っているんだぞと。その証拠があるんだよと、言いながらも証拠は出さない。なぜならば、最初にアメリカがイラクに兵器を売ったんです。

 

そういうことを言わないで、売ったんだから証拠があるはずと。フセインは独裁者です。もともとイスラムの国はどこでも独裁の国だからね。

 

東京法話と実践会 2015.12.13 

http://www.ustream.tv/recorded/79709203(期間限定公開動画)1:18:00~1:33:00

f:id:thierrybuddhist:20151220120634j:plain 

スーパーで売っていても魚は魚じゃないですか|殺生について - 瞑想してみる

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