ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 仏道実験室の作業工程と理論

年末特別法話 2015(4)生命はメインじゃなくてサブ

(前回から続きます)

幸福になる世界は仏教ということで、今日教えたいポイントは、これから言います。

 

ブッダの言葉と言うのは精密で、純粋に科学的な真理なんです。科学「的」と言わなくてはあかんです。科学は真理じゃないんだからね。毎日発展する、ということは知り尽くしていないんです。それが科学のやり方です。毎日進化しているんです。仏教は進化しません。真理に達したんだから。頂上に達したら、その上に登るところはないでしょう。

 

幸福とは何ぞや? 徳を積むとは何ぞや? 善行為とは何ぞや? 善行為とはあるのか? そういうふうに連続的に何時間もしゃべることはできます。いろんな議論をしながら。善行為・悪行為ってあるのかいとかね。たとえば殺生が悪行為だったら、蛇がエサを取ることは悪行為ですか? 蛇は生で動物を食べなくてはあかんでしょう。では蛇が殺生しないで何も食べずに飢え死にしたら、悪行為ですか、善行為ですか? とか、いろいろなくだらない質問を作れます。ということは結局、善も悪も成り立たないでしょう。それは相対的ではないかと。蛇がカエルを飲み込むことは善行為で、人間を噛むことは悪行為だと言わなくてはいけなくなっちゃうんですね。そういうのは科学的でも何でもない、人間の妄想の世界です。

 

生命、生命と言っても、生命っていったい何ですか。これから難しいところを言います。調べると、これは成り立たない。何か起きているとき、現れている結果なんです。メインじゃなくサブなんです。いろんな部品を組み立てたところで、「あ、命だ」となっている。そのプログラムで動く。

 

最近、科学的に色々な概念があるからね。emersion property、突然二次的にあらわれたものだと。だから実際は、ないと。こころとは脳の働きとしてあらわれたものだ、と。こころが実際に支配しているんですけど、どこにあるのかわからない、と。

今読んでいる本で、脳のどこに現れているのかと、ここではない、ここではない、と、いくつか調べている。そのとき、わたしが全然勉強しないで言ったことには、なんの問題もないんです。むしろもっと進んでいるのではないかと言う感じです。

 

脳幹があやしい、と。基本的にそこからスタートする。でも、自分という実感が脳幹ではないんだと。大脳の下の部分でも別のセクションがあって、そういうところでいろいろ連絡しあって、最初は細胞と連絡を取って、それをまとめて自分という気持ちが生まれて、それからそこのデータを受け取るセクションが脳に現れる。それをまとめていくと、こころとかconsciousやらあれやこれやと現れるんだと。一生懸命科学的に説明しようとするところは、仏教の教えの順番になっているんですね。おもしろいことに。

 

最初は感じるだけで、それからsaññā*1

、そこで何とかしなくちゃいけないというsaṅkhārā*2が生まれて、それから普通われわれが言うconsciousという認識・知識があらわれてくる。わたしたちがわかるのは、知識の「これが花だ」ということはわかっているんですね。「花だ」というより先にデータがどんどんと繋がっていかなくちゃいけない。基本的にマッピングするんですね。マッピングしたところから、次に行って、またデータを入れて、次に行って、最後にこれはどういうことだと発展した概念にするんですね。

 

そういう場所がない、ということですね、いつもみなさんが大きく考えているのは。わたしはそこからさらに進んで、生命と言っても同じこっちゃじゃないかと。遺伝子を構成している四種類の塩基は何の命もないでしょう。そこを次に次につなげるようになったところで、命、ということになるんです。だから、二次的にあらわれるeffectなんですね。

 

これをわたしたちは、すごい命は! と取っているんです。

 

それで、命というものが細胞という物体になったところで命であって、そちらに生き続けたいという気持ちが生まれるんです。それも二次的にあとから気づいた気持ちなんですね。「これが命だ。じゃあ生きていかなくっちゃ」とかね。そういう感じであらわれる気持ちなんです。それはもう言葉であらわれませんよ。

 

一般的に、本能だと言っているのは知識に関係なく、起きるプロセスなんですね。われわれの気持ちに関係なく、細胞たちが頑張っているんですね。そちらに命のプログラムがある。お釈迦様がおっしゃっているのは、「あなたは勝手に期待したって、遺伝子たちも勝手にやっていますよ。 歳取りたくないと思っても、歳を取るのが法則だ。壊れることが法則だ。だから期待を持つなよ。なんの期待も。どんな期待も」

 

どんな期待も、遺伝子のプログラムと違ったものになるんですね。その期待通りにはならないんですね。困るだけです。

 

遺伝子、細胞が、生きて生きたいと思うんだから、執着という気持ちが生まれるんです。細胞一個が、その単細胞が、この体に執着するんです。するべきじゃなかったんですけど、本当は。意味がないんです。でも執着する。だから、すべて余計なことを、やらなくてもいいのにやっている。この執着することによって、生命が死んでも現れる。細胞が死んでも新しい細胞を作っちゃう。それで、誤解している。「俺が新しい命になりました」と。そうなっていないんだけどね。

 

それで、このシステムから脱出しなくちゃいけない。四種類の塩基に執着していますかというと、誰も執着していなんです。遺伝子に執着している? 誰も執着していなんです。だから、執着自体が余計なんです。

 

この精密なところをお釈迦様が、科学者にできないプログラムを考えたんです。それは科学世界にはできないことです。科学では、あるものはなんなのかと調べるだけで終わっちゃうんです。これって何とかならないのかというのがお釈迦様です。お釈迦様は執着を捨てるプログラムを考えました。

 

考えて、科学者らしく、自分で実行して、「ああ、解放されました。この苦しみから。存在欲から解放されました。三つの渇愛がなくなった。物に執着すること、生き続けたいと思うこと、それから破壊的な渇愛がなくなりました」と。

 

ということはもう、それ以上は言葉にならないんだと。なぜならば、言葉は存在の中のものだから。お釈迦様のプログラムを、解脱に達するまで、生命を進化させるプログラムをひと言葉で言えば、無執着のプログラムなんです。無執着といったとたん、みんな嫌がるんです。だって単細胞で生きていた時も、執着で生きているんだから。物を取り入れよう、取り入れようと。取り入れようと言っても単細胞なんですけど。ちょっと膜があって核があって、その中に遺伝子が入っていて、それだけの生命なんです。それなのに、そちらに執着しているんです。守れないのに。それで、ものを取り入れたり、取り入れたものをゴミとして外に出したり、危険から身を守ったりという仕事をしているんです。

 

だから、生きるという機能は単細胞もきちんとやっているんです。こころとか脳とか入れなくても大丈夫なのに、その反対をやらせている。われわれの体は単細胞じゃなくて四十兆も細胞を持っているんだから、執着はかなり凶暴です。とくに脳システムが出てきたらかなり執着は強くなったんです。脳で物事を判断するようになってきて、生き続けるためには、とことん執着するべきだという結論を出してきたんです。だから、アメーバよりも人間の執着は、地球全体を破壊するところまでいっています。

 

われわれは、本能で、遺伝的に、執着することが当たり前になっています。執着を捨てましょうと言ったとたんに、「え、それはどういうことか」となってきます。だから、これは人間にわからないでしょう。お釈迦様はそう思ったんです。科学が発展している現代人にもわからない。科学がなかった当時の人間にもわからないし、科学が発展したらなおさらわからなくなっている。面白い現象なんです。

年末特別法話 2015(5)善は執着を捨てる世界 に続きます)

 

スマナサーラ長老・東京年末特別法話 2015.12.23

http://www.ustream.tv/recorded/80316896(期間限定公開)より書きました。

Twitter実況:http://twilog.org/jtba_talk/date-151223/asc

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*1:(サンニャー:パーリ語で「想」。「知識のようなもので、わざわざ意識しなくても知っているはたらき」

引用元パーリ語仏教用語集 PAÑCAKKHANDHA(パンチャッカンダ):五蘊

*2:サンカーラ:パーリ語で「行」。何かしたい、という気持ち。