(年末特別法話 2015(5)善は執着を捨てる世界 から続きます)
そういうふうに科学者はその瞬間のところは見えないんです。言っているところはほとんど真実ですけど、遺伝子は自分のコピーをしても、明らかなコピーで元のものではないんです。自分の体を見てもよくわかるでしょう? われわれは単細胞で生まれて、それからコピーする、コピーする。コピーするんだったら、同じものにならなくちゃあかんでしょう。そのままコピーするんだったら人は死なないでしょう?
正しくコピーしないんです。元のものとコピーが違うんです。こんな体に生まれたわけじゃないんです、わたしも。小さいときは本当にかわいくて、きれいな体で(笑)。ちっちゃな子供の体はどこを見てもかわいいんですよ。ときどきわたしは、小さな子供たちの手足をじっと見るけれど、かわいいんですね。子供たちはわざわざ足で顔をけったり、全然こちらは嫌になりませんね。子供が足をわたしの口に入れても、なんだこれはとニコッとして遊ぶだけで、じゃあわたしが誰かの口に足を入れたらどうなるんですか、今。同じ細胞でしょう? いえ、同じじゃないんですね。
赤ちゃんの小さなピンク色の足を、赤ちゃん自身もなめているけど、わたしたちも全然へっちゃらでしょう。だから、細胞はコピーするけれど、正しくコピーしていないことがわかるでしょう。
昔の写真を見て「これは私です」というのは勘違いをしているだけ。遺伝子は生き続けないんです。子孫を作りたいというのも、遺伝子の勘違いで起きている気持ちなんです。そればっかりやっちゃうと、馬鹿を見る羽目になります。自分があっけなく消えていくことは、確認しなくちゃあかんです。
わたしは子供をよく観察するんだけど、七、八年経つと、違う世界だなあと。こちらはボロボロになっちゃって、向こうは体力がモリモリで、「ああ、わたしは消えていかなくちゃあかん」とすごく実感するんです。わたしは七十歳だから、小さいころ遊んだ子供というのは、もう結構大きくなっているでしょう。その人々は元気で、明るくてバリバリでこれから生きていかなくては、という感じですが、こちらは「さようなら」になっちゃったなと。そんな悲しい思いをするために子孫を作るんです。
よこしまな行為をしないということは、中立的で正しい戒律で、遺伝子の限りのない子孫を作りたいという気持ちを抑えている。そのことも無執着なんです。そういう無執着の訓練なんです。
嘘をつきたいというのもなんですかね? 嘘をついてでも存在を守りたいという気持ちでしょう。嘘をつかないことにする。そうすると、きついんですよ。しかし、それが善行為になります。
そのように、善とは、執着を捨てるプログラムです。悪とは、執着に合わせてそのままいることです。執着のまんまで。それは悪の道で、ほしいものは盗っちゃう、かわいい人は触っちゃうというのは破壊の道なんです。遺伝子のままに生きることは破壊の道です。
遺伝子の言う通りに生きることは悪の道で、遺伝子に対して攻撃態勢で生きることが善の道です。それで解脱ということが得られます。
そういうわけで、いろいろ、仏教の教えを調べてみてください。たとえばね、皆様は今日はかなりのお布施をしましたね。掃除をすることで。そこで、大掃除したんだけど、皆様はそのご褒美として何も得ていなんですね。お布施ということは、あげなさいという遺伝子のプログラムではないんです。とりなさいというのが遺伝子のプログラムです。例外として自分のためになるならば上げてもいいやということですね。
母親が自分の子供に母乳を上げているは、お布施にならないんです。たとえば、おっぱいは出るけど子供に吸わせなかったら、その人の体が壊れます。だから、男から考えればよくもこんなきゃしゃな体で子供を産み育てられるなと思いますけど、母乳を上げないわけにはいきません。命にかかわるんです。
それはお布施になりません、赤ちゃんにおっぱいをあげることは。あげなかったら、遺伝子たちが危険な目に合って、社会からも非難を受ける。だから、おっぱいをあげて育てる。それはお布施にならない。
お布施になるのは、遺伝子のプログラムと違ったことなんです。仏教が説くお布施というのはそういうものです。たとえば、社会ボランティア、福祉をすることも善行為ですよ。勘違いしないでください。社会の人々を生かしてあげて、平和に無事に生かしてあげることが善行為ではないんです。そこじゃないんです。病気の人がお金がなく困っていたら、われわれはお金をあげて治療してあげて治してあげる。(これは)善行為です。(しかし)人を治したことが善行為ではないんです。
善行為になるのは、それをするためにあなたはどれくらい「無執着」を実行したか、ということです。
遺伝子の中に、ほかの生命が病気になったら治してあげなさい、というのはないんです。あなたのお金を他人の治療代に払ってください、というのは遺伝子にないんです。自分の治療だったら何の躊躇もなく支払う。だから、ボランティア活動が善行為になるのはそういうわけなんです。自分のために、(ボランティアではなく)ほかのこともできるのに。善行為は自分のためではないんですね。他のため。
そういうわけで、微妙であろうが巨大であろうが、執着を捨てるプログラムが、ブッダの、解脱に達する、幸福に達する道なんです。それは精密な科学的理論で成り立っている。それよりもすっごい善行為は、冥想して禅定に入ることです。お布施よりもはるかにすごい力なんです。
(最終回・年末特別法話 2015(7)無執着の終点は解脱 に続きます)
スマナサーラ長老・東京年末特別法話 2015.12.23
http://www.ustream.tv/recorded/80316896(期間限定公開)より書きました。